風薫る別荘にて 後編

 すぐさま帰宅し、清陽を風呂に投げ入れた。当然己れも入ったが、長湯はせずに上がり、今度はベッドへと沈める。
「シリカ。僕はそこまで眠くないのだけど。」
「冷たい川に飛び込んだのだ。寝入らなくても良いから横にはなっておけ。」
「はいはい。僕の珪がこんなにも優しいのは、他ならぬ僕の為だものね。」
「分かっているのなら良い。」
 寝転がった状態で、川のそばで拾って来た石を眺めていた。照明に翳すと貫通した光が拡散して、清陽の虹彩に交わる。
「それは、さっきの。」
「石英に似ているな、とは思うんだけど。」
 後で図鑑ひっくり返さなくちゃ、と呟きながらうつ伏せになった。今度は清陽の掌でころころと石が踊る。綺麗に燻された様な灰色である。その石が跳ね返す光は優しくぼんやりとした物で、ゆっくりと眺めているうちに清陽の瞼に重さが載り始めた。
「なんだか、眠いや……。」
「それはそうだろう。体力を使ったのだからな。」
「シリカは?」
「添い寝を所望するなら、やってやる。」
 石を持つ手ごと重ねる。鉱石が互いの熱を吸っていき、やがて境界さえも曖昧になる。
「また寝惚けて、先生の前でキスしても良いのかい?」
「今すぐ、その減らず口を塞いでやっても良いのだぞ。」
「ふふっ、期待しちゃうな。」
 まるで警戒心の無い声音だ。心を許されている事実は満たされるがすぐに渇く。少々揶揄ってやろうとベッドへ横乗りで上がった。
「良いのか、本当に。」
 手を握ったままで、覆い被さる。額にかかった髪を梳かし、睫毛が触れる距離でヘイゼルの瞳を覗き込んだ。
「え?」
「本当に接吻して良いのか、と聞いている。」
 眼窩に収まった大きな瞳が、溢れてしまうのではないかという程に見開いたかと思うと、途端、薬缶が湧きそうなほど赤くなった。 
「ま、待って、僕はそんなつもりじゃ――……!」
 清陽の言葉を無視して、距離を詰めた。固く目をつむり、紅潮した頬には緊張が走っている。その様子に己れは愉悦で貌が崩れそうだ。唇ではなく鼻筋へ触れ、音を立てて吸う。思いもしなかった部分への感触に、清陽はぽかんとした表情になった。
「……え?」
「どうした? 随分静かになったな。」
 厭らしく笑えば、羞恥とも憤怒ともつかぬ色をヘイゼルの瞳に灯した。本当に接吻されると思ったらしい。
「珪、君って奴は……!」
 なるほど、美人の恥じらいは花を撒くようでもある。その様子があまりに面白く、思わずくつくつと笑いが漏れた。目の縁からやや泪が染み出てくる姿は、まるで物慣れぬ少女のようだ。
「おやすみ、己れのヘイゼル。良い夢を。」
 扉に手をかけ、部屋を後にするまで、清陽はひどく赤面していた。
「おやすみ! 僕のシリカ!」
 最後に聞こえた言葉に返事は出来無かった。笑いを殺しきれず、己れは扉を背にしゃがみこむ。廊下なのでさっさと立ち去ったほうが良いのは分かっていても、心の中を勢い良く攫う濁流を鎮めなければならぬ。
 嗚呼、なんと愉快で、可愛い奴なのだ!
 鼻と口を両手で覆い、表情が崩れていくのを隠した。誰に遠慮するわけでもないが、普段の己れからしてみたら想像もつかぬほど笑み曲がっているだろう。
 己れのヘイゼルの貌といったら! 散々己れを揶揄うのが悪い。その上、自らにやり返されたら狼狽えるなど随分愛らしいではないか。
 可笑しくて愛しくて、様々な衝動が生まれては弾け、殺しきれなかった音が意図せずこみ上げてくる。両手を覆い、息を詰めなければ、妙なうめき声となって咽喉から這い上がってきそうだった。

 ◆ ◆ ◆

「こんばんは、五月女くん。」
 朝と同じく先生がやって来た。夕方だというのに、橙色の風が吹き込んでくるようだ。
「夕飯は済ませましたか? 大した物は出せませんが、ご一緒にいかがでしょう。」
「気持ちだけで十分だよ。この時間は、まだ他のところへ行かねばならなくてね。」
 やや垂れた目が柔和に動く。背丈は己れよりやや高い程度で、成人男性としては低いが包み込む雰囲気を感じ取る。それでいて圧迫する様な存在感でもなく、なるほど医者向きな方だ、と観察した。そういえば清陽と同じくらいの高さだ、とも。
「そういえば、きちんとした挨拶をしていなかったね。
 僕は 日南田 ひなた という。ここらでは、はっちゃんなんて呼ばれてしまっているけど。」
「はっちゃん?」
 苦笑しながら発せられた、随分砕けた呼び名に思わず尋ね直してしまった。
「下の名前が 迅人 はやと でね。呼びやすいらしくて。好きに呼んで良いからね。」
 寝癖なのか、元来そういったそういった髪質なのか、あちこちに跳ねる髪を照れくさそうに撫で付ける。猫の寝顔に似た笑い方に、力が抜けていった。
「それは、……どうも。」
 日南田、という響きからしてそれらしいとは思ったが、この男は人の距離感を詰める配分が早い気がする。言外にそう呼べと言われている様な気がしなくもなかったが、目上の方を気安く呼べるほどの愛嬌は己れには無かった。無言で階段を上がり、朝方と同じくドアを三回ノックする。
「清陽。先生をお連れした。」
「はい、どうぞ。」
 己れのヘイゼルがやや余所行きの声を発しているところから、目は醒めているようだ。同じ轍を踏む様な真似はしないか、と安堵したが、同時に物足りなさも感じた。
「こんばんは、宗田くん。」
「こんばんは。」
 ベッドの中で身体だけ起こした状態で、己れ達を迎え入れた。顔色は良いので、体調を崩している事はなさそうだ。
「あれから、眠ったのか。」
「退屈だったから課題をやって、その後少しだけ。」
 結局すぐには眠れなかったのか。思い出し笑いがこみ上げたが、清陽の矜持の為にもこらえた。
「では、始めようか。」
「あ、先生。ちょっと待って頂けますか。」
 清陽が制止をかけた。はて、と思っているとヘイゼルの貌がこちらを向く。
「あのね、珪。先生に聞きたい事があるから、外に居て欲しいんだ。」
「どういう事だ。」
 自分の耳を疑ったが聞き間違いでは無いらしい。清陽はベッドから飛ぶ様に降り、室内履きをぱたぱたと跳ねさせる。己れの背中を押す手は、それなりに力が込められていた。
「御免よ、そのままの意味さ。」
 もしや昼間に揶揄った事に未だ腹を立てているのか、それとも。やや硬質な声にグラリと不安が募る。
「先生とゆっくり話をしてみたいと思ったんだ。……そこで、良い子で待っていてね。」
 扉の隙間から覗いた表情は、寒気がするほど蕩けそうで甘い笑顔だった。痛烈な拒絶がそこにあるのは明らかであった。
「ヘイゼル……!」
 呼びかけも虚しく、扉が閉ざされる。
 清陽と己れで見ている世界が決定的に別れた瞬間であった。
 何をするにも共に在ったのだ。寝食のみならず、教室も、道場も、学塾も、寮室も。何か取り返しの付かない事をした気がして、掌から熱が消えていった。

 順調に診察を終え、二人は程なくして部屋から出て来た。言われた通り廊下で待機していた己れも、玄関先までついて行く。
「宗田くん、良いね? 無茶はしてはいけないよ。」
「分かりました、迅人先生。」
 人当たりの良い清陽は先生の事を下の名で呼ぶ様にしたらしい。渾名呼びになるのは時間の問題な気がした。
「全く、男の子だから仕様が無いけれど。五月女くん、宗田くんを頼んだよ。」
「……はい。承知しました。」
 玄関先で日南田先生を見送る。柔和な笑みは、年下の兄弟を窘める様な色合いだった。朝と同じく家の前の坂を降っていき、背中が見えなくなる。
「怒られちゃった。」
 ひょいと舌を出し、悪戯っぽく笑う。まるで反省していない様子で清陽は言った。
「それはそうだろう。己れが医師だったなら、拳骨を落とす。」
「おお怖い! 僕のシリカはこんなにも厳しい!」
 両頬を手で覆い、ころころと笑う。先ほど見せた、静かな怒りのらしき物は見当たらない。
 もしや、怒られるの見越して己れを追い出したのか。己れの監督不行き届きを咎められない様に装ったのであれば、ああいった不自然で強引な素振りに納得がいくのだが。
 だがそんな仮説は泡となって消えた。
「僕、暫く先生と一対一で話してみようかと思うんだ。」
「はっ?」
「勿論、分からない事を質問されたら呼ぶから、扉の外には居てくれよ。」
「何故また、急に。」
「病人にだって、先生にしか話せない事もあるさ。」
 申し訳無さそうに言う清陽の表情に、何も言えなくなる。
 まさか、己れがあまりにも側に居するから、却って己れには悩みを打ち明けづらいのだろうか。清陽の為を思った事が枷になっているなら本末転倒だ。サァッと血の気が引く思いがした。
「嗚呼。違うんだ、僕のシリカ。君には僕の側にずっと居て欲しいんだ。……今まで通りに。」
 まただ。蜂蜜を溶かして、舌が焼けそうなほど甘く、どろりとした笑み。湖に広がる漣の如く、己れの背中が静かに粟立った。

 己れのヘイゼル、お前は。一体、己れに隠して何を考えている?

 ◆ ◆ ◆

 清陽の宣言通り、朝夜の診察は日南田先生と清陽のふたりきりで行われた。いや、それ自体は特筆するほど、妙な事では無い。ただ、診察を重ねるごとに二人が醸し出す空気が親密になっていっているのが気に食わぬ。
「清陽くん、それではまた。珪くんも、宜しく頼むよ。」
「迅人センセ、また明日の朝ね。」
「話の続き、楽しみにしているよ。」
 二人にしか分からぬ話題、砕けた呼び名、睦言を交わすかの如く色合い。何もかもが不愉快になるのにそう時間はかからなかった。
 いつもの通り、坂を降る先生を見送る。暗がりに溶けていく後ろ姿に、どうにもならない苛立ちを覚えた。
「お前、あの医者に一体何を話しているのだ。」
 廊下に居れば多少の声は聞こえるが、内容まで把握するのは難しかった。かと言って盗み聞きをする様な真似をするほど落ちぶれてもいない。二人の楽しげな声が時折漏れる度、己れは口の中に鉛を押し込められた心地になる。
「極めて普通の事だよ。」
「なら、何故己れを締め出す。」
 鼻にかかる様な甘い声で呼びかける清陽の姿は見た事が無い。最早、媚びていると言っても良いくらいだ。肚の奥が煮えたぎる心地がするほど、その姿は忌々しい。
「そんな怖い貌しないでくれよ、僕のシリカ。」
「ッ!」
 唐突に耳へ軽い接吻を贈られた。ピアスがゆらゆらと揺れる。咄嗟に身を竦めてしまったがゆえに、すぐに文句が出てこなかった。
「そうそう、星図なんだけれど。実はもう書いてしまったんだ。」
 それを分かっていてか、清陽は普段通りの貌で課題の話をしだした。その話はここまで、と鋭利な刃物で切り落とされたかの如く、前後のつながりはさっぱり見当たらなくなっていた。
「……己れも、ほぼ出来ている。清書が未だ、だが。」
 追及するのが面倒になり、己れは重い溜息を吐く。花が溢れそうな笑みで、清陽は「そうこなくちゃ!」 と手を叩く。
「明日の夜は雲ひとつなく晴れるらしいから、例年通りで良いよね。」
 ぱたぱたと室内履きを鳴らす己れのヘイゼルは、どこか浮かれている。先生が帰った後は大抵こんな具合だ。ふつふつとした怒りは、一体何に対する物なのか区別がつかなかった。
「じゃあシリカ。後でね。」
 綺羅びやかな笑みを湛えて、扉が閉ざされた。無意識に米噛みを押さえる。このままでは清陽自身に怒りの矛先が向きそうだ。嚥下した憤怒は火の味がする。廊下に落とされた呼びかけはシンとした夕闇に霧散していった。

 ◆ ◆ ◆

 明くる日の朝も同様に廊下で待つ。診察が終わっても、清陽は出て来なかった。
「あの、清陽は。」
「ほんの少しだけ、熱がある。じっとしていれば今日一日で戻るだろう。」
「そうですか。」
 言葉少なに先生へ背を向ける。急ぐ必要も無いが、どうしても足早に階段を降りてしまう。帰りの見送りも出来ればしたくない程度には、己れは心中穏やかではなかった。先生は巻き込まれているだけで全く非は無いというのに、自らの不寛容さにも腹が立つ。
「珪くん。清陽くんの事なのだけど。」
「何でしょう。」
 思っていた以上に冷たい声音になってしまった。声にしてから少々申し訳なくなる。 
「見守ってあげて欲しいんだ。どうも、不安で仕様が無いみたいだから。」
「それは……。分かって、います。」
 これは、味気無い社交辞令だろうか。それとも何日間か二人で過ごした結果、己れには見せていない部分があって、先生は助言をしてくれているのだろうか。清陽の気まぐれに振り回されているだけで、先生には罪は無いと分かっていても、勘ぐってしまう。
「あと、それから。彼はとても可愛い子だね。」
 出来るだけ先生の言葉を拾おうとしたが、最後の言葉だけは叶わなかった。動物を愛でる様な表情とその一言に、目の前が真っ赤に燃える。金槌で強く頭を打ったかの如き衝撃に拳が震えたが、先生は鈍い方のようだ。「それじゃ、また」などと言い、己れに背を向ける。そこで飛びかかって手を出さずに踏みとどまれたのは、掌に食い込ませた爪の痛覚で平常心を保てたからだ。

 ――……己れのヘイゼルの何を、何を知っていると言うのだ!

 姿が見えなくなって初めて、己れは呼吸を止めていた事に気が付く。一気に吐き出せば、どくどくと耳元で早鐘がなっている。
 今すぐに清陽の部屋へ駆け込んで、どういう事か問い詰めたかったが、熱があると言っていた。そうであれば食事を作らせて、部屋に運ばねばならない。
 深呼吸を何度かして、心を落ち着けた。優先順位を冷静に考え、あの医者が言った台詞は脳の外へ投げ捨ててしまえば良い。あの二人の間柄よりも、清陽が何を考えているかよりも、まず何より己れのヘイゼルの体調を整えてやらねば。
 天気はさほど良くないらしい。雲が空を覆い、風が出ていた。果たして晴れるのだろうか。

 熱があるといったのは本当で、食事を持って行った時には深く眠っていた。氷枕、手ぬぐいや桶を用意させ、看病につく。
「……清陽。」
 額に載せた手ぬぐいを替えている際に、身動ぎしたので呼びかけてやるとヘイゼルの瞳がこちらを覗いた。右頬を差し出したので、そこに口付けを贈る。近づけた己れの頬へ、清陽も同様に口付ける。小鳥の囀りに似た音が愛らしい。
「起きられるか?」
「うん……。」
 また寝惚けている。その事実に己れの心は晴れやかになる。部外者がいなければ、清陽はとても無防備だ。それはこの療養でより明らかになった。
「着替えられるか。」
 無言で頷いたので、清陽の衣類に手をかける。洋装のゆったりとした衣類は脱がせやすかった。冷やした手ぬぐいで身体を拭く。
「今日一日、ゆっくり休め。」
「今夜、観測行きたいから頑張るよ。」
 額に接吻すると、幼児の様な笑みを浮かべて、着替えの途中だというのに眠りについた。その姿からは、何か重大な思惑や隠し事がある様には見えぬ。
「あまり、己れを嫉妬させるなというのに。」
 苦笑交じりに吐いた言葉は部屋の中で中途半端に浮いた。風が強いのか、窓が神経質そうな音を立てる。
「……愛している、己れのヘイゼル。」
 呼びかけは静かな寝息に混ざって行く。
 外に出歩く用事も無いので、看病ついでに清陽の部屋で過ごす事にした。星図の清書をしてしまおう。夜までに、雲が切れていると良いのだが。

 ◆ ◆ ◆

 目の前の部屋で起きている事が理出来ずに居た。眩暈がする。口が渇く。足元からガラガラと崩れていく。
 この部屋で何が起きているのだろうか。
「ッ……、ん……。」
 僅かに漏れる濡れた音。やや押し殺した様な、くぐもった声が聞こえる。いつもより診察の時間が長い。
「セン、セ……。」
 掠れた声は間違いなく清陽の物だ。 およ そ診察の時に挙げる声とは思えぬ色香を含んでいる。懇願する声音にも聞こえ、己れの背中から腰にかけて甘い痺れが走った。
 何か密やかに、小声でやり取りするのが聞こえる。それから小さく笑い合う様な音も。
 ……どうしたって肌を重ね合う行為に聞こえてしまう。
 己れは頭を振り冷静になろうとする。だがその間にも聞こえる布ずれの音がなけなしの冷静さを削り取っていく。
 漸く日南田先生が出て来た。衣服に乱れは無い。相変わらず、外側に跳ねた髪を遊ばせながら、穏やかな表情でこちらを向く。
「今日は見送らなくて大丈夫だよ。外は風が強いし、 塵芥 ごみ が入ってきてしまうかもしれないからね。」
「その、先生……。」
 清陽と、一体何を話しているのですか。
 こう聞けば良いだけの話なのだ。そこに妙な感情を付随させるからややこしい事になるだけであって、監督の役目を負っている己れが先生と話をしたとして、一つも不自然な事は無い。
「……いえ、お気を付けて。また明日、お願いします。」
 だというのに己れの口から出たのはどうでも良い挨拶であった。それじゃあ、と会釈をして立ち去る先生が階段を降り始めたのを見届け、己れは部屋の扉を勢い良く開けた。
 奴はベッドから起き上がって出窓の側に立っていた。髪は乱れ、上半身は何も纏っていない。己れが荒々しく入ってきても、反応せず外を眺めてぼんやりとしていた。
 その姿に己れは激昂した。己れの気も知らず、何故あの男の前で必要以上に無防備になっているのか!
「お前、先生と一体何を……!」
「……何だと思う?」
 ゆったりとした動作でこちらを向いた。出窓を背もたれに妖しく笑う。否定も肯定もせずただ己れを見据えた瞳は、ランプの灯火と相俟って己れが知らない色を載せていた。
 清陽を乱暴に窓辺へと縫いとめる。
「シ、リカ?」
己れの心火が灯りに誘発され、辺りに燃え移るかと思えた。それほどの憤ろしさが、とうとう爆発した。
「何度も言わせるな。夏になる前に言った事を、もう忘れたのか?」
 脚の間に己れの膝を割って入れさせる。抵抗して己れの身体を剥がそうとするが、それは容易に予想出来た。片腕で腰を抱き、もう片方を背中に回せば挟み込めないほど密着させる。
「……嫉妬、しているの?」
「ここ数日、わざわざ己れを立ち入らせない様にして、妙な声を出して、まだ恍けるというのか。」
 ここらで仕置きと称して手ひどく扱ったら、己れのヘイゼルはどんな貌をするのだろうか。想像しただけで、舌舐めずりしたくなる。素肌のままである胸板を弄れば、大袈裟に清陽は反応した。
「待って、シリカ!」
「煩い。」
 髪を掴み、横を向かせる。いつもならピアスが下がっているが、寝起きだったから何も付いていない。窪んだ穴があいた耳朶に舌を這わせ、噛みつき、更に耳の裏側を強く吸った。
「……ッは、……!」
 ぢゅう、と下品な音がしたが却ってそれが生々しく厭らしい。清陽の肌はどこをとっても白く、美しい陶磁器製のようだ。ここに花を散らしてやったらどんなに美しい模様となるだろうか。
「駄目だ、珪……! いっ、厭だ、それ!」
「厭? 何が厭だと言うのだ、己れの清陽。」
「耳元で、そんな音……! や、ああぁ!」
 水気を含んだ音をわざと立てる。あられもない声が清陽の喉から溢れでた。自らの唇から出たとは、到底思えぬ声に驚いたのか、必死に口を噤む。
 ふいに、視線だけで外を見遣ると、先生が何故か立ち止まっている。嵐の様な強風の中、こちらを呆然と見上げ、立ち尽くしている。その貌のなんと呆けた事!
 魅せつける様に外耳を舌先で舐めあげる。息を吹きかけると清陽は短い悲鳴を上げた。
「ひっ、……!」
 髪を引き、上を向かせれば、白く細い首筋が艶めかしく浮かび上がる。がぷりと食らいつくと引きつった様な息が漏れ、たまらなく興奮を覚えた。甘噛するたびに清陽の身体が震え、嗜虐性を掻き立てられる。囚えた獲物を徐々に弱らせていくというのは 、支配欲をひどく満たしていくと知った。その間じゅう、先生から視線を逸らさなかった。
 やがて先生は我に返ったのか弾かれた様に背を向け、急ぎ足で立ち去っていく。その様子に己れは笑みが浮かぶのを耐えられなかった。晴れやかな優越感に満たされ、おおよそ気が済んだので、清陽を解放する。
「全く、僕のシリカはどれほどヤキモチなんだい!」
 放してやった途端、妖しい気配は消し飛び、いつものヘイゼルの調子に戻った。しょっちゅう己れを悋気させる様な真似をしておいて、何を言うのやら。
「勘違いさせるお前が悪い。それに先生は巻き込むな。迷惑だろう。」
 自らが今しがた起こした行動を棚上げし、蔑み半分、開き直り半分でそう答えた。己れと長い付き合いであるにも関わらず、そういう事をしたのだから当然であると良い加減知るべきだ。
「……本当に、先生にしか分からない事を聞きたかったんだ。」
 その内容を言うつもりは無いらしい。清陽が頑なになれば、その口の堅さは己れ以上だ。どうしたって口を割らないと判断し、小さく首を横に振った。
「その相談はまだ続くのか。」
「いいや。今日で全部分かった。だから、明日からは一緒に診察を見て欲しいな。」
「当たり前だ。元よりその役目は父様と母様から仰せつかっているのだからな。」
 額を寄せ合えば、久しぶりの温もりに触れられた心地がする。
「熱は引いたみたいだな。」
「外出の許可は貰ったよ。観測に行くなら念入りに温かくしなさいって。」
 毎年恒例の天体観測。邪魔も蟠りも無く迎えられそうだ。あとは空模様だけが心残りではあるが。

 ◆ ◆ ◆

 毎年通る慣れた道とは言え、真夜中の山道など本来は良しとされない。何が棲んでいるか分からぬし、熊避けの鈴を持っているが気休めの様な物だ。それでも、多少の危険を負ってでも行きたくなるくらいには絶好の夜空を臨める立地がある。少々山登りになってしまうが、背の高い木々が少なく、おまけに湖まで見えるところだ。天気が良く風がなければ水面に映る夜空も同時に楽しめる。
 そして何より、己れ達が駆け足になりそうなほど急いている理由がもう一つ。
「珪! また一つ見えた!」
「ちょうど見頃だな。」
 流星群が重なったのだ。木々に隠れた空の中でも既に幾つか流れる星を見た。飴細工の細い糸の様な尾を引いて、すぐに消えていく。
「シリカ、早く!」
「そう急かすな。また転ぶぞ。」
 手提げ用のランタンが乱雑に揺れる。踊る影は正に己れ達の浮かれた様子そのままだ。結局小走りになってしまったが、目的の場所へと登りついた。

 拓けた視界に息を呑む。
 湖に反射する夜空はこの世の物とは思えぬほど幻想的であった。光の大小強弱、様々な星が敷き詰められている。その中を、箒星が活発に動きまわる。絶え間なく降り注ぐ星々は、山の影や別の星の光に吸い込まれていき、水面とシンメトリーに流れていく。紺碧の晴空に、月は見当たらなかった。己れ達により良い夜空を見せるが為に、留守にしてくれたのだろうか。夕方までの強い風は雲を払ってくれたらしい。凪いだ水面にも瞬く夜空の美しさは、筆舌に尽くし難い。
「なんと、見事な。」
 観測と流星群と重なったのは偶然であり、奇跡とも言える。手を伸ばせば、或いは湖に飛び込めば星が掴めそうだ。あまりに現実離れした光景に、身体が感動で震える。特別な風景が、今はたった二人だけの物のようだ。
 不意に、清陽が己れの右手をとり、指を交差させる様に繋いで来た。
「清陽?」
 返事は無い。だが手は更に強く握りこまれる。痛みは全くないが、圧迫感の伴う清陽の左手から、縋る様な気配を感じ取った。
「どうした、己れの清陽。」
 繋がれた腕を要にして、清陽の身体を引き寄せる。空でもなく、湖でもなく、己れさえも見ずに貌を伏せている。伸びて来た髪が頬にかかって、表情は分からぬ。
「珪が、昏い水の底か、或いは遠く果ての無い空の先に、引き込まれてしまう気がしたんだ。」
 己れの心に言葉がそっと落ちた。
 似た様な事を思った日がある。
 強い日差しに照らされ、青い空と海へ溶けていく、清陽の姿。最期になるかもしれぬと焼き付けた、澄み切った空の青さ。
「莫迦だな、ヘイゼル。お前が居るというのに、己れがお前を放って何処かへ消えるものか。」
 清陽の手をしかと握り返す。身体は冷えていないようだが、震えていた。
「……天界が地上を覗き見ている時に、向こうの光がこちらに漏れ出でて、流星となるそうだ。」
 清陽が漸く天を仰ぐ。泪を湛えたヘイゼルの瞳に、星の欠片が散るを見、己れは呼吸を忘れた。
「天界の扉が開いているから、今なら神に願いが届くらしい。」
 頬に一筋、綺羅とした泪が音も無く流れる。重力に従って滴り落ちる雫は、どの光の縞よりも儚く消えていく。
「シリカ。君なら、一体何を願う?」
 絶佳とはこの事だろうか。
 非現実的な宵闇の中、壮麗な大聖堂の如き美しい景色に立つ清陽の姿は、神の使いが舞い降りたと錯覚させる。
 白く浮かび上がる肌は星影さえ映しそうである。僅かに光る泪の跡がそれを一層引き立てた。繋いだ手から伝わる熱が、これは現実の世界であると唯一知らせてくれる標べになった。
 手を繋いだまま、貌の位置まで掲げる。肌触りの良い手の甲に、唇を寄せた。
「一つ、お前が健やかである事。二つ、お前と共にある事。三つ、お前と二人で生きる事。」
 目を閉じ、祈りを込めて唱える。
「随分、欲張りだなぁ。」
 微笑む清陽の表情は、まだ固い。
「この流星の数だけ、向こうへ筒抜けなのだ。人間は強欲であるから、仕方が無いだろう。」
 泪を拭ってやると、長い睫毛がふるりと揺れた。蝶の羽の様に軽く、絹糸の様に柔らかい瞳の額縁は、星空を映す榛色の宝石を大事そうに包み込んでいる。
「清陽。己れの清陽。己れのヘイゼル。
 己れはここにいる。何度でも言ってやる。だから、忘れるな。」
 もう片方の腕で腰を引き寄せ、手の甲へ口付ける。軽い音を立ててやると、清陽の瞳は大きく瞬いたが、やがて力の抜けた笑みを浮かべる。
「一つ、僕のシリカが健やかである事。二つ、僕のシリカと共にある事。三つ、僕のシリカと生きる事。」
「己れと同じで、良いのか。」
「これ以上の贅沢、この世では思い付かないよ。」
 今度は清陽が、己れの甲へ。繋いだ手の向こう側で、清陽の濡れた瞳が揺れている。
「……御免よ、珪。」
 何に対する謝罪だったのかは分からない。数日間、己れを診察から締め出した事かもしれぬ。或いは今ここで弱音を吐いた事かもしれぬ。もしかしたら、これ以上に求める事かもしれない。
「何でも良い。お前さえ、己れのヘイゼルであれば。」
 星々の光が降り注ぐ中で祈りを捧げながら、互いの甲に何度も接吻し合った。それは祝福し合う様でもあったし、互いを現実に縫い止める様でもあった。
 そこに言葉は無い。愛しているという囁きさえも無い。角度を変え、視線を交わし、己れ達は天地が交わり一つになる様な浮遊感と脱落感を味わう。

 瞼の裏は、眩むほどの目映い星の欠片が散った。
 清陽もまた、瞳の底に蓋をした色が見え隠れしていた。