夏休みが明け、秋めいて来た頃。休学していた清陽が、今日から復学する。
それを知った親衛隊は大いに喜んでいたし、鳳先輩は男泣きしていた(先輩は入院先に来る事は無かった。復学すると信じて鍛錬に勤しんでいたという)。同級生のみならず、先輩方や先生方まで清陽を心待ちにしていたというのは、己れの事の様に誇らしい。
夏休みが開けてからすぐに、清陽は病に罹ったと通達した。暫く質問攻めにも合った。楽観出来る病気ではないが、悲観的になる病状ではないと正直に伝えた。己れのヘイゼルが居ない学舎は花が萎れた様であった。皆、手紙や鶴を己れを通して清陽へ贈り、一様に心待ちにしていた。
当人は、復学を強く望んでいたが為に随分駄々を捏ねた。それはもう、別荘へ養生に行く時とは比べ物にならない位に。主治医も相当手を焼いたようだ。直ぐに連絡がつく所に居る事、監督者――実質的に、つまりは己れ――を付ける事、尚且つ病院から離れた場所には行かないという条件で、どうにか折り合いを付けたらしい。最終的な結果が出た日の一連の流れは伝聞でしか聞いていないが、その癇癪たるや凄まじかったという。涼しい顔をしているが、ここに立つ事が出来ているのは主治医の温情なのだ。
「緊張しているか?」
今日に至るまでの日を己れも指折り数えていたが、本人は一日千秋の想いだった事だろう。外套を羽織る手が、僅かに震えている。昂ぶっている様子は容易に見て取れた。
「少しだけ。楽しみ過ぎて、どうにかなってしまいそうだ。」
寮の外に待ち構えているのは、人数が随分増えた親衛隊は勿論の事、太鼓の音から察するに我が校の応援団が居る様だ。恐らく鳳先輩が一枚噛んでいるのだろう。次いでそれを諌める先生方に野次馬、通学中の生徒で構成されていると推測出来る。
「嗚呼、僕は愛されているんだね。」
熱狂的になるのは理解出来る。何せ彼らにとって、不治の病と告げられた憧れの人物が、日常に帰ってこようとしているのだから。
「では、手を。」
「……どうしても?」
エスコートする度に微妙な顔をするのは変わらないが、清陽もこのお祭り騒ぎのなか真っ直ぐ歩けるとは思っていないだろう。諦めた様に、細く長い息を吐いた。
「己れが居るのだ。安心しろ。」
「うん。」
履き慣れた、だが久しぶりに学校用のブーツへ足を通す。踵を鳴らし、履き心地を確かめる己れの清陽は、それだけで踊り出しそうであった。
己れに手を引かれ、玄関の戸を大きく開けた。外へ一歩踏み出した途端に、割れんばかりの歓声が響いた。まるでパレィドと錯覚するほどの眩しさが、清陽を出迎える。
「まだ泣くな。これからもっと、熱烈になるのだぞ。」
「……分かっているさ。嗚呼、僕は! 僕は本当に愛されている!」
清陽へ様々な声と呼び名が反響する。応援団の太鼓が鳴り響き、校旗がはためく。激しいほどの熱量に、己れのヘイゼルは一面に花が咲く様に笑い、彼ら全員に届く声で言い放った。
「宗田清陽! 只今戻りました!」
◆ ◆ ◆
目まぐるしい一日だった。
鳳先輩は正門で待ち受け、勝負こそ仕掛けなかったものの先輩として激励し、夥しい泪と
厳しく気難しい事で有名な英語の原田先生さえ、「よく戻ってきた」と一言仰ってくれた。普段への字に引き結んだ口元を僅かであるが緩め、少々外側に付いた引っ込んだ瞳には教師として生徒の心身を案じる様子がしかと見えた。清陽は堪らずおいおいと泣いた。
だが、復学の手続きと試験があると告げられ、容赦なく別教室へと引き摺られていった。初日だと言うのに別室だなんて! と奴は別の泪を流していた気がするが、仕方がない事なので合掌して見送る。
昼食すら共に出来ぬほど、清陽は隔離された。朝の混乱状況を見るに、学校側の対応としては妥当であるとは思う。
漸く戻ってきた頃には、部活動に勤しむ生徒ばかりが残る夕暮れであった。確認試験(実質の中期試験である)を終えた清陽は、安堵の息を吐く。
「本当に、どうにかなって良かった。」
一日中、別室で手続きと試験漬けだった為、流石に疲労の色が見え隠れしている。学帽を被り直し、椅子にしなだれる様に崩れていった。下校の時刻となった今、正門にはお見送りの親衛隊らが居るのだ。気を抜けられる内に気力を回復させておかねばならない。
「シリカ。入院中、勉強も面倒見てくれてありがとう。」
「己れに張り合えるのはヘイゼルだけだ。好敵手が居なければつまらないからな。」
これは尊大な意識でも無ければ、謙遜でもなく只の事実である。二人で研鑽し合う内に、同じ事を同じ程度出来る者が互いしか居なくなってしまった。試合や勝負は同格同士が戦うからこそ楽しいのだ。
そして間違ってはいけない。こいつが言う、《どうにかなった》は落第しなくて良かったという意味では無い。休学中だったとはいえ、学力は己れと同等を維持して来たのだ。
「ところで、僕の珪は何点取ったんだい?」
だから、こうやって己れに挑発的な眼差しで尋ねてくる。中期試験の結果は、来るべき勝負の為にと、今の今まで伝えていなかった。
古文漢文、外国語、第二外国語、数学、歴史学、倫理学の六教科、各百点満点の試験であった。己れは一学期の期末試験での雪辱を果たす機会であるのだが。
「五八十八点だ。」
清陽は点数を聞き、真剣な面持ちで無言になった。勝ったか負けたか、それとも引き分けたか。手に汗が滲む。
そうしてたっぷりと間を取り、遂には猫の様にニンマリと笑う奴のその貌といったら! 背中に冷たい汗が流れ落ちていった。
「五百九十点! また二点差だね、やったぁ!」
嗚呼またか! と叫び己れは頭を抱え、天を仰いだ。平均して九十八点を取ったというのに、ヘイゼルはやはり一筋縄で超せない。とは言え、同じ轍を踏むなど何たる無様な事だろうか!
「危なかった。歴史学、九十二点だったんだ。」
「……満点が四つあるのか。」
「古文漢文、倫理学と数学。それから第二外国語。二学期から独逸語か仏蘭西語、どちらか一つになっただろう。仏蘭西語のほうが肌に合っていそうだと思って変えたんだ。」
己れも倫理学、外国語及び第二外国語――己れは独逸語を選択した――は満点であった。歴史学で授業範囲外の出題が期待した以上に解消出来なかった事、数学で計算を誤った事、古文漢文で解釈を誤り失点したのが敗因だ。
「外国語の、スペルミスが一つなければ四点差だったのになぁ。」
眩暈がしそうな言葉が聞こえてきた。選りにも選って、慣れ親しんだ英語で間違えるなど! 己れに更なる敗北感が伸し掛かってきた。
「暇な病人が動きもせず、勉強漬けだったんだから出来て当然さ。今回はシリカに大差を付けて勝てると思ったのに、流石は僕の珪だね!」
「……お前から讃えて貰えて、己れは心から嬉しいぞ、流石のヘイゼル。」
「そう沈む事は無いさ! 期末も頑張ろうね。」
期末試験が本命である。そこで一矢報いる為には、弛まぬ努力をするしか無い。そう思い至り、落胆と安堵の中間くらいの息を一つ吐く。己れは清々しい悔しさを携えて、清陽と共に帰路につく事にした。
帰りの花道こそ、大仕事となるだろう。恐らく、かつてない熱気と快気祝いを、両腕に抱えて変える事になるのだから。
◆ ◆ ◆
通学と通院に問題無く慣れてきた頃。
寮に戻り、窓際の椅子で船を漕ぎながら清陽は外を眺めていた。己れは清陽に用意した真新しいベッドへと腰掛ける。奴の睡眠に配慮した結果、普段も病室もベッドであったので、寮長に少々無理を言って持ち込んだ物だ。
「体育祭、出たいんだけどなぁ。」
独り言とは思えぬ声音だったので、流し読みしていた本を閉じる。
「激しい運動は控えろ、と言われているのでな。」
「運動の秋だというのに、ひどいと思わないかい?」
側に歩み寄り覗き込んで見れば、すっかり拗ねた貌をしていた。猫の様に軽くて柔らかい髪を撫で、頬を指で擽る。
「その前に写生会があるだろう。その分の心を、芸術に傾ける事だ。」
幾ら喚いてもこれだけは譲る事は出来ない。只でさえ寮に戻って来られたのは、主治医の譲歩と己れありきの条件なのだ。
「良いさ、応援団の珪をしっかり見ておく事にするよ。」
各学年から選挙制度で、二人ずつ選ばれる、名誉の応援団員。元々ある応援団を体育祭の時のみ増員し、紅白応援団として結成される。名前の通り紅白で組を分け、種目での競争とは別に、団員の演目でも争う事が伝統となっている。
夏休みに入る前までは己れと清陽が選ばれると思われていた。しかし病に倒れた今、清陽が参加する事は叶わなかった。
「そんな貌をするな。……己れだって、残念に思っているのだ。」
「……分かっているとも。」
憮然とした表情のまま、くすんだ水晶を指で弾く。机の上で軽快な音が不規則に鳴り、左右に覚束ない動きで跳ねまわった。やがて静止したそれを暫し眺めていた清陽が、「そうか」と小さく呟いて立ち上がった。
「来年、やれば良いんだ。」
脳内で何かを勢い良く組み立てている様な瞳の色をしていた。雰囲気、というか様子が妙だ。まるで舞台に登った役者じみている。
「二年が副団長。三年が団長。副団長は団長の任命制だ。そして副団長は翌年度の団長を引き継ぐ。そうだったよね?」
「それは、そうだが……。」
西日を受けた清陽の陰翳がくっきりと像を結び、一段と美しく見えた。同時に、どこか威圧的な空気も浮き彫りになる。
「僕も君も、団長に指名されれば良いだけの話だよね。」
片側の頬を緩く釣り、口角を上げた奴から読み取れる思惑はたった一つであった。その表情に、己れはハッとした貌を作り、すぐに芝居掛かった神妙な面持ちにする。
「今年副団長の、大莫迦先輩に根回しすると言っているのか?」
「あくまで仮の話さ。でも先輩は僕の事、大好きだからなぁ。頼まずともやっているかもね……?」
意味深な流し目がこちらを向く。己れは小さく首を振り、唇を小刻みに震わせた。
「そんな、そんな事……。それは不正だ、ヘイゼル! 考え直してくれ!」
「ええい、寝惚けた綺麗事を! その程度、誰しもやる事さ!」
両肩を掴み、縋る様に揺すったが大袈裟に振るい落とされてしまう。清陽は己れの胸ぐらに掴みかかり、そのままベッドへと押し倒した。柔い衝撃に息が詰まったが引くに引けぬ。己れの手首は捕らえられ、縫い付けるかの様に体重を掛けられた。
零さんばかりに瞳を見開き、怯えた振りをする。気分を良くしたのか、清陽の美しい淡褐色がきゅうっと弓なりに歪んだ。
「僕のシリカ。分かっておくれ。君と二人で華の応援団へ入る道はそれしかないんだ。」
「己れのヘイゼル! そんな事せずとも、己れ達はきっと! ……く、ふはっ!」
「ちょっと! ここまでしておいて、そこで笑うなんて! ……ふふっ、あはは!」
あまりにもわざとらしい雰囲気にとうとう我慢出来なくなり、二人でベッドの上で笑い転げた。三文芝居ですら裸足で逃げ出す酷い出来だ。
「嗚呼! 己れのヘイゼルが、まるで政治家の様だ!」
「何を言っているの。そもそも先輩は政治家の息子なのだから、これくらい融通は利かさなきゃ!」
「おお怖い、己れの清陽がこんなにも理不尽だなんて!」
夕日が差し込んだ部屋に、蠢く影が踊る。ベッドからは小刻みに音が鳴った。止まらない笑い声に混ざり、妙に賑やかな室内になる。
ふと、掴まれた手首に微かな痛みが走った。浅く着いた爪跡が目につく。先ほど、縺れ込んだ時に清陽の爪が食い込んだのだろう。
「ヘイゼル、一旦落ち着け。ここに座れ。」
依然として大笑いし続ける清陽を誘導し、身体を起こして座らせた。ベッドの上で切るのは行儀が悪いが、気が付いてしまった今、すぐにでも切ってしまいたい。
「爪が伸びている。手を。」
そう言うと、己れの清陽はピタリと笑うのを止めた。代わりに微妙な表情で、己れから距離を取ろうとする。
「……本当に日課にするつもりなの?」
「存外、……。いや、かなり楽しいのでな。」
さぁ早く、と促せば躊躇いがちに隣に落ち着き、苦笑と共に溜息を一つ吐いた。
「やれやれ。深爪にしないでくれよ?」
差し出した手の甲は、
◆ ◆ ◆
広大な敷地を持つ我が校は裏手の山までが校内と呼ばれる。益々秋めいた頃に行われる写生会は、正に芸術の秋には打って付けだ。紅葉は勿論、花々や空、或いは野鳥など絵になる物が多くある。各学年まとめて行われる行事であり、優秀な者には全校生徒の前で表彰される。
運動や体躯に自信のない者は挙って競い合うが、優れた絵を描く為のモティーフ争いと場所取りは結局の所、体力勝負となる。
そして、顕著に絵になりそうな者がここにいると、どうなるか。
己れ達が今日は下駄や半長靴を履かず、半靴であるのは理由がある。
写生会の開会式終了と同時に、己れ達――いや、清陽に視線が集まった。次に起こる事を予測していた己れ達は、すぐさま踵を返し、勢い良く駆け出す。真後ろで、堰を切った様に怒号が飛び交った。
「待て! 待ってくれ、翡翠の天使!」
「五月女くん! 君もだよ、いいや、君を描きたいんだ!」
「二人ともお願い! すぐに描くから!」
「この弩阿呆共ォ! 静かにせんか!」
「人間のモティーフは禁止していないじゃないか!」
「先生達、後生だからそこをどいて!」
先生方も事態を予想していたのか、強靭な盾となって頂けた。後ろを見遣れば、魚に似た原田先生と目が合う。まるで野良犬を追い払うかの様に、手の甲をこちらに向け、数回払う動作を寄越してきた。厳しく不器用な先生であるが、彼なりの情が見えてつい頬が緩んだ。
「今度、先生方に御礼をしなければな!」
柔らかい革で作られた靴は、新しい物だが足に馴染み、痛み無く動く事が出来た。清陽もその履き心地を気に入ったらしい。
「しかし、君もなかなか人気者だなぁ!」
「何を言う。全てお前の信奉者だぞ。」
「いいや、半分はシリカのだよ。」
「そんな訳無いだろう。」
横から、前から、後ろから続々やってくる清陽を狙う腕や手。それらを躱し、払い、狼藉者は投げ飛ばす。当然清陽も自衛しながら進んでいるが、いかんせん数が多い。
「嗚呼、僕にはぴったりの運動の秋だ!」
久々に身体を動かして晴々としている姿は、見ていて気持ちが良い。
童の様に笑い、誰の話でも聞き、加えて翡翠の天使などと呼ばれる存在だ。人々が奇跡だと崇めるのは理解出来る。しかも病に冒され、急性に転じたら何日も持たぬというのだから、皆が必死に捕えようとするのも当然かも知れぬ。
だが、その天使が柔道剣道合わせて四段を持つ猛者だと、一体誰が信じようか。
「己れの清陽。間違っても全力で走るなよ。」
「身体が鈍って仕様がなかったんだ! とっても、とっても楽しい!」
弾ける汗は、正に命の輝きであった。投げ飛ばされた者は一様に目を回していたが、幸福そうでもある。命を燃やす清陽は眩しく、しかし危うさにも溢れ、己れは清陽の背後に付いてその姿を眺めた。
◆ ◆ ◆
敷地が広くて心底良かったと思う。追いかける信奉者を漸く撒いた頃には、かなり奥深い場所へと辿り着いていた。大汗に濡れた己れ達は、手縫いでどうにか身体を落ち着かせる。逃げ回って午前中は終わってしまったが、課題を夕方までに仕上げれば良いので十分な残り時間だろう。
「こんな所、あったんだね。」
辺りを見回せば、どうやら長年忘れ去られた建物があるらしい。明らかに使われていない棟に、腐っていそうな木の長椅子。それから背の高い雑木林。踏みしめる地面は腐葉土なのか、綿を敷き詰めた様に柔らかい。
そして何よりも、目を引いたのは。
「すごいね……。」
「うむ、見事だ。」
一際大きく美しい楓の木が一つ。一見、華奢そうな枝だが、幹はしっかりしている。幾つにも枝分かれした先に、扇を折り重ねたかの如き鮮やかな葉を付け、豊かな色を風に揺らしていた。赤だけでは無く黄や緑が混じり、まるで錦の色合いであった。
「よし、ここにしよう! とても気に入った!」
「賛成だ。」
「その前にお弁当かな。お腹空いちゃった!」
「当然、賛成だ!」
適当に座れそうな地面を探して、腰を据え昼食をとった。午後の授業開始の鐘と共に、絵にする場所を決め、暫し互いに無言で絵に取りかかる。
医師となればカルテに絵を描く事もあるだろう。短時間でなるべく形をとる訓練はしていたので、あたりを付けるのは苦労しなかった。スケッチブックに何枚か構図を簡単に描き、良さそうな物を一つ選んで精密に描き込んでいく。細かに描くのは久しぶりで、つい没頭してしまった。
絵の心得が特別ある訳では無いが、父や母の絵を描いては褒められていた思い出がある。描く行為その物は好きであった。
「シリカの絵って意外と優しいよね。」
仕上げをしていると、不意に清陽の声が降ってくる。どうやら描き終えたらしい。胡座のまま振り返れば、後ろ手にスケッチブックを持ち、上から覗き込む清陽と目が合う。
「そうか? 只管、正確に模写しようとしているのだけなのだが。」
寧ろ、そういった要素は皆無である気がする。一般的に言う、優しいという概念は、ふんわりと柔らかな絵に対しての評価である。己れが描いた絵は極めて写実的であり、どうにも清陽の言う物には結びつかない。
「僕は好きだよ。何ていうか、赦されている気持ちになるんだ。」
「どういう事だ?」
首を傾げると、清陽は己れの隣へ座り込んだ。地面に投げ出した脚はスラリとして長く、制服の黒がそれを引き立てる。
「そこに居て良い。側に在って良い。そう言ってくれる気がする。」
「ふむ、よく分からん。美しい物を美しいままに残せたら、としか考えていないからな。」
「僕の珪らしいや。」
木の葉を揺らす様に笑う清陽は、自らのスケッチブックを開いた。そこにあったのは、それこそ優しい絵と評価されそうな、淡く描かれた紅葉と木の長椅子であった。輪郭が細く取られており、陰影は細かに付けられている。すぐにでも消えてしまう様な脆さも併せ持ち、不思議と強く惹きつける雰囲気に溢れていた。
「ヘイゼルの絵は、何だか食える気がする。」
「君って意外と、食い意地張っているよね。」
半ば呆れた貌をされたが、気にもしない。噛めば甘く砕けそうな絵は、清陽のコケティッシュな笑みに似ている。
「氷砂糖みたく消えそうであるのに、口の中には名残が残って、もっと欲しくなる。だからずっと見ていたくなる。」
「ふぅん。僕には良く分からないや。」
「自分の絵に対する感覚など、そんな物だろう。」
仕上げが終わった。今から戻れば、まだ己れ達をモティーフにする輩が居るだろう。手持ち無沙汰になったので、スケッチブックを捲り、清陽の横顔を描き始める。
奴は特に何も言わず、ぼんやりと林を見上げ、透けた空に浮かぶ雲を眺めていた。
「木と土の、良い匂いだよね。」
「夏の山とは違うな。仄かに甘い、輪郭の丸い空気だ。」
二人して深呼吸をし、艶やかな空気を胸の奥底まで吸い込む。清陽は吸っては口から吐き、確かに甘い、と小さく口の中だけで呟いた。
「これってさ。葉が腐って土に還る匂いだよね。」
正確には有機物が分解されて出る
「熟れた果実も、食べ頃の野菜も、全部腐る手前なんだなぁって思う時は無い?」
考えていた事と繋がる様な内容を言い出した清陽に、思わず頬が緩む。長く共に居れば考えが似る、というは強ち間違っていないのかもしれない。
「そう言えば何でも腐りかけが一番美味いと、己れの父が言っていたな。」
「なるほど。珪が食いしん坊なのは、五月女の遺伝だったのか。」
可笑しげにする奴の醸し出す空気は、奔放な風に舞う羽衣の様に嫋やかであった。その姿は、己れが気に入っている清陽の魅力の一つである。
その後も、取り留めもない会話をしながら筆を進め、紙面上に清陽を描き起こし終えた。陰影はまだあまり付けていないが、悠悠閑閑とした表情は我ながら上手く残せたと思う。
「僕は死んだら、美味しくなるんだろうか?」
出来栄えに満足し、芸術家気取りで頷いていたというのに、思いがけない言葉に阻害された。一拍以上遅れて清陽の方を向く。己れの顔色は、途方も無く悪いのではなかろうか。
「急に何を言い出すのだ、己れの清陽。」
「死んだら等しく、土に還るだろう? 還っていく最中、どんな匂いになるのかなって。」
何を思ったのか、制服や髪が汚れるのも一切気に留めず、奴は落ち葉の山へと崩れる様に倒れこんだ。目を閉じ、息を肺の限界まで吸いこみ、やがて止める。悪戯に風が舞い、清陽の手足に落ち葉を被せていく情景に、土葬されるヘイゼルを否が応でも想像してしまった。ゾッとする悪寒が全身に走った。
慌てて引っ張り起こしたが己れのヘイゼルはされるがままであり、力が抜けたその身体も糸が切れた操り人形の様だ。
「……愛しい己れのヘイゼル。お前は、必ず、きっちり火葬してやる。」
「あはは! 良いじゃ無いか、少しの死に想いを馳せるからこそ、長生き出来るんだよ?」
苦々しく言葉を吐けば、ころころと笑いそんな事を言う。メメント・モリと面白半分に口にする学生は多い。それは今の清陽が口にするのとでは言葉が持つ重量が全く違う。前者は覚えたての言葉を繰り返したいだけの赤子であり、後者は冗談では済まない部分だって大いにあるのだ。心臓を握り潰される様な心地に、己れは顰めっ面になった。無意識的に目と眉間の間を揉みほぐす。
「シリカ。こっちを向いて。」
眼前の麗人は至って普通だ。それどころか厭に楽しそうだ。揉み込んでいた手を止めヘイゼルを見ると、耳の上に何かを差し込まれた。
「嗚呼、黒髪に赤はやっぱり映えるね。とても綺麗だ。可愛い僕のシリカ。」
手でそれに触れると、形と色の良い楓の葉があった。髪飾り代わりにしたらしい。
「フロイラインではあるまいし、こういうのは止せ。」
「メッチェン相手なら花を差すさ。僕の珪だからこそ、その錦色なんだよ。」
燃える様な紅葉の赤、秋の甘い匂い、夕陽が作る長い影。
何もかもが豊潤に実る世界の中で、一際品のある美しさを放つ、己れのヘイゼル。汗の匂いや泥と落ち葉の香りを漂わせておいておきながら、夕陽に照らされて薄赤く染められる頬が一層、玲瓏たる姿を引き立てる。
「そういう事ならば、これは今日という日を思い出すための栞として、受け取っておく。」
「読書の秋って訳かい? 洒落ているなぁ。」
鼻の頭に付いた泥を拭ってやると、擽ったそうに笑った。今日は酷く揉みくちゃにされた日だと言うのに、いつにも増して清陽の機嫌が良い。泥だらけになろうが、髪に落ち葉が絡もうが、清陽自身の精彩を感じさせる笑顔は心を惹きつけて止まない。しかし、強く燃え過ぎている様にも憶えた。
「そろそろ、提出しに戻るか。」
「そうだね。大分落ち着いていると良いのだけど。」
黄昏時となる陽射しは脆く零れ落ちそうである。その癖、色味の主張は強く、どうしたって目を引いてしまう。今の清陽はそれに似た光を纏っていた。芳醇な葡萄酒を透かした時の様な秋の輝きは、油断すれば滲んで消えてしまいそうだ。
お前という枠組みが、秋の千代紙の一つにならないか。
お前という輪郭が、木漏れ日に隠れて己れから離れないか。
微かに過ぎる不安は秋の所為なのだろう。だからこそ。
己れはお前から贈られた、紅の楓を携える。