夢玉堂の二階には:弐

 ジャリジャリと音を立てて自動車が走る。其の横を縫うようにして自転車が往く。夢玉堂へ行く途中、野生の朝顔は既に灼け爛れ始めていたが、美しい入道雲が立ち上っていた。今日も汗が噴き出る暑さだ。
「御免下さい。」
 涼しげな風鈴、打ち水、それから軒先の日陰。ふうと一息付く。汗を 手巾 はんけち で拭うが、額は滝の様だった。
「今日和、木立様。」
 凛、と音が鳴る草夏殿が現れた。盆の上には ぐらす と曹達の瓶が。思わずゴクリと喉を鳴らす。揺れる帯は金魚の 尾鰭 おひれ に似ていた。
「旦那様の支度が終わるまで、奥の座敷にお通ししますわ。暑かったでしょう。」
「嗚呼、それはもう。そこら中が灼熱地獄でした。」
 クスリとした笑みは見た目の齢からかけ離れた表情であった。しかし女将や芸娼といった女の匂いがする訳でもない。何か幻想的で、秘密めいた気配がする。
 杯に注がれた曹達は透明に爆ぜる。軽やかな音を立てる其れを夢中で吞み下すと、喉がパチパチと鳴った。彼女はそんな自分を見て少し笑う。途端に恥ずかしくなり、持参した紙袋の中身を差し出した。
「此方、細やかですが土産です。」
 名義人殿は偏食だと知ったのは、以前彼から夕飯に誘われた頃だ。草夏殿が作った飯か、決まった店の決まった物しか食わぬという徹底ぶりであり、その上美食家である。土産の習慣が出来たのは、夕飯の礼にと持参したのが切欠だった。今日はロシヤ菓子だ。
「いつも有難う御座います。旦那様ったら、 全然 すっかり 木立様の土産に虜ですのよ。」
「お口に合って、光栄です。」
 私も好きな店なのです、と頭を掻いた。
 彼は偏食家ではあるが、私が気に入った味の物は大抵召し上がる。舌を信用されるのは心地が良い。
「ヤァ、待たせたかな。」
 噂をすれば。ぼさぼさの濡れ頭に、着流しという出で立ちで名義人殿が現れた。また水浴びをしていたと見える。そして彼の片手には原稿と、もう片方には小瓶が。
「旦那様。木立様。御夕飯の頃に御声かけしますわ。」
「ウム。」
 彼は用意された茶を、私は曹達を頂いて一息ついた。
金曜日の昼過ぎに訪問し、仕事の話をする。其の後、夕飯を御馳走になる。そして次の金曜に、また土産を携えてやって来る。其の繰り返しで此処一月(ひとつき)程、遣り取りをしている。
「では内容を拝見します。」
 彼の筆の速さは凄まじい。お負けに話も上手い。毎号読み切りで、三つの雑誌に 各々 それぞれ 別の連載をしているが、どれも大反響を呼んでいる。 判霧 はっきり 言って、彼の話が人気の大半を占めていると言って良い。
「どうかな。」
「確かに。拝領します。」
「嗚呼、然うではなくて。」
 足を崩し給え、と促され横坐りになる。名義人殿は胡座を掻いて、茶を継ぎ足した。
「君の感想を聞きたい。」
 頬杖をついて、ニヤリと笑う。蛇の視線には大分慣れたが、相変わらず落ち着く事はない。妙な負荷がある。
「……僭越ながら。今回の主人公は、その。妙に臆病ですね。」
 彼の書く人物はどれも芯が在り、そして強かな人柄であった。根回しや言葉のやり取りは洒脱であり、強か惹かれる部分がある。
 だが今回は 彼是 あれこれ と思案し、尻込みし、其れでも何とか進もうと性格だった。江戸町奉行でありながら、何かと追われ、生真面目に取り組み、狼藉者に怯えながらも聴取する。そして日没に染まる町を眺め、一人笑顔を浮かべる。正しく至って平凡な人間である。
「今回の 素材 もでる は、何を隠そう木立クンだからナ。」
 耳を疑った。「私ですか」と聞き返せば「然うとも」と返される。
「ずゥっと書いてみたかったンだ。君の話をね。」
 笑みを含む彼は心底面白げにするが、私は堪ったものではなかった。
「此の、慌てふためきながら治水に奔走するシーンは……。」
「以前、僕の水浴びを手伝って貰っただろう。桶の水を僕にブッ掛けろと言ったら、君のヘッピリ腰が愉快の何の。」
 暫く肩を震わすだけであったが、 到頭 とうとう 我慢出来なくなったのか、彼はケラケラと笑いだす。私は居た堪れなくなる。
 大先生と言って差し支えない人間に水を思い切り撒けと言われたら誰だって然うなるだろうに! 
「こういった物は、読者は望まないのではないのでしょうか。」
「初めに言ったじゃァ無いか。君を僕の担当にする。書きたい物だけ書く。其れなら君らの雑誌に付き合ってやると。」
 眩暈がした。確かに然うだ。其の通りだ。だからと言って、編集長に此れを渡せと言うのか。明日の出社が早くも億劫である。
「まぁ、此れでも食べ給え。土産の礼だ。」
 白眼を剥いた私に満足したのか、金平糖が入った瓶から小皿に幾つか空けられた。
「……では、有難く……。」
 最早抵抗や遠慮する気力は無かった。一粒取って、奥歯で噛み砕く。上品な甘さが口内一杯に広がる。
「名義人殿は、良いのですか。」
「僕ァ、君の持ってきたロシヤ菓子が興味深くてネ。」
 無邪気な子供の仕草で、土産の紐を解いていく。 嬉々 いそいそ と口に含み、蕩ける顔をする物だから、私は苦笑した。
「ナァ、君の昔話をしてくれンか。」
 唐突に名義人殿は切り出した。
 昔話。其の言葉が重く反響する。次話の ねた にしたいのだ、と彼は言った。
「……あまり、愉快では無いです。」
「だからこそ聞きたいのだ。」
 年上らしい余裕ある表情になり、心臓が跳ねる。何故か、幼い頃に何かと面倒を見てくれた人物と面影が重なった。駄目だろうか、と眉を下げる表情は何処か懐かしく、そして名義人殿では見た事が無い物だ。
「君、平凡になりたがっているだろう。そして、過去を切り離したがっている。違うか。」
 私は目を見開いた。声にならない声が、喉から絞り出される。彼は容赦する事なく、私の内側へ瞳を向ける。
「僕に、木立クンの過去をくれないか。」
 真っ直ぐな眼光だった。射貫く瞳に私は動けなくなる。机越しに手を握られる。ヒヤリとした名義人殿の体温と、私の熱が混ざって境目が曖昧になっていく。
 其れと同時に、過ぎ去った日々の凄惨な中にあった、煌めきがチラついた。
「……生まれは、甲斐になります。」
 話し出すのに、幾らかを要した。彼の手を少し握り返すと、指遊びをする様に応える。



 私の村は、僻地にありました。
 その中でも、土地と権力を有した家に生まれました。立場としては、 雨降師 あめふらし の家系でした。室町の頃、豊穣と息災を齎した山々の神と交わったと言い伝えられ、まじないや言祝ぎを執り行う家系でした。
 後進的だと言われるかもしれませんが、私にとって其れらは身近な物だったのです。勿論、私自身は神通力など持ち合わせておりません。
 ……私が生まれたのと引き換えに、母が死にました。次の日、酷い水害が起きました。父は其れに巻き込まれ、死にました。責任を感じた祖父は山へ入りました。残されたのは祖母と私と、分家。生まれたばかりの私に家を取り仕切る事は出来ず、殆ど祖母が家長として振る舞いました。
 私が八つになった日、祖母が死にました。挿げ替えられる形で分家の家長が取り仕切る事となりました。
 その直後、私は奉公という名目で家を追われました。
 行った先は、見世物を生業とする所でした。あの時……、夢霊が身体に入った時に、もしかしたら口走ったかもしれませんね。雨降師の子として奇跡を起こす様を芸として披露しました。でも其れは、単なる 手品 いんちき に過ぎません。芸を仕込まれ、折檻を受けながら私は生きました。
 其の中でも、首筋に鳥の羽が生えた、年長者が私の味方でした。其の他は……。ほら、私は五体満足ですから、彼等からも爪弾きにされていたので。
 鳥の彼は、私を何かと庇ってくれました。
 ……然し、彼もまた死にました。其の頃になって、私が呪われた存在なのではないかと、疑い始めました。
 私が生まれたから、母は死んだ。其の直後、水害が起きた。だから父は死んだ。だから祖父は死んだ。
 八つになって神の庇護から外れた人間となり、祖母は死んだ。私を庇ったから、鳥の彼は死んだ。
 其れからは折檻も迫害も悪化するばかりでした。世間からは疎まれ、身を寄せた所でも除け者にされ、私は限界でした。強く願いました。

 皆、死んでしまえ、と。

 もう、お判りでしょう。死んだのです。目の前で。ばたばたと。
 繰り返し言いますが、私は神通力などありません。印を結ぼうが、経を唱えようが、何も起きません。況してや念じるだけで人を殺す事など出来ません。
然し、実際に彼等が死んだのは事実です。世間は私を何と言いましょう。私は只管に逃げ、隠れ、飲まず食わずで駆け抜けました。
……気が付けば、見知らぬ土地におりました。私は記憶を無くした振りをして、大きな神社に駆け込みました。
 其れからは……。新たに名前を付けて頂き、使い走りとして生きました 勉学も叩き込まれました。そして願う様になったのです。

 人並みに暮らしたい、と。

 幸い、世話になった神社は街で働くのを良しとされました。
幾つも街を周り、人や巡り合わせの縁あって、今の出版社に腰を落ち着けたのが、今年の四月に御座います。
 然うして、貴方に会いました。名義人殿。



 語り終え、私は俯いた。
 沈黙が重い。誤魔化す為に金平糖を含んだ。カリッとした音が場違いに思えた。
 名義人殿は何も言わない。ただ、私の手の甲を摩るだけだ。私は無性に泣きたくなり、呆気なく涙が落ちて行った。
「……ヒトの温もりが、熱過ぎると感じます。」
 焦れったいほど温かく、優しく、自らに向けられた時、どう処理したら良いのかが分からない。戸惑ってしまうのだ。
「其れでも、ヒトになりたいと……人並みに勤め、人並みに暮らせる様になりました。」
 人肌に触れ合う機会が、圧倒的に少なかったのは自覚している。然し、其れが必要だった時期は疾うに過ぎ去った。得るべくものを得るべく時に失すれば、其れは二度と手に入らないのを身を以て知っている。
「丸で、人外だな。」
  決然 きっぱり とした声だった。
 涙が勝手に溢れる。私は何を期待したのだろうか。奇人変人の名義人殿とて、ヒトなのだ。嫌われてしまった、軽蔑されてしまった。
 私は、此の人の担当から外れたら会社でどの様な価値があるのだろう。会社を追われてしまったらどうしたら良いのだろうか。
 強く手を握られる。摘み出されるだろうか。出来ることなら、此のヒトには嫌われたくなかった。少々おっかないが、何より私は、名義人殿の一番の 贔負 ふぁん であると自負していたのだ。
 恵まれ過ぎていた。更に力を込められ、鋭い痛みが走った。食い込んだ爪に顔を顰め、罵声を恐れ身を竦める。
「素晴らしい!」
 最悪の未来を想定していた私は、彼が発した言葉が理解出来なかった。思わず顔を上げれば、興奮に浸っている彼が頬を染めている。
「素晴らしいぞ、木立クン! 初めから、君は僕好みだと、思っていたのだ!」
 両手で私の手を握り締め、上下に振る。私は状況についていけず、為すがままになる。
「きっと、恐らくは不謹慎だろう。其れでも君は素晴らしい! 君は矢張り、好ましい!」
 呆気に取られる私を尻目に、彼は高笑いする。何が彼を喜ばせて居るのか理解出来ず、狼狽えた。
「名義人、殿?」
「覚悟し給え、木立クン。僕ァ、絶対に君を手放してやらん。」
 ぞくり。背中が甘く痺れる。夢霊に侵入された時と同じく、熱く波打つ感覚だ。
「一体、何故。」
 名義人殿は机を乗り越え、遂には私の真隣へと膝をついた。座布団が蹴散らされていくが、彼は何も気にしていない様だ。
「……僕ァ、君の瞳が何故美しいのかを知れた。其れ以上に面白い事はない。」
 水菓子に砂糖を掛けた甘い眼の色だった。名義人殿の口元は堪らない、といった様に緩み、鋸に似た歯を覗かせる。私の両頬を挟み、じっくりと見つめる。
 安堵と歓喜と羞恥と。私は硬直に見舞われ、石像と化した。

 どれ程の間、其うしていたか。夕飯と思しき香りが漂い、腹の虫を刺激する。
「此の匂い、今日はぶり大根に煮卵だ。 鱈腹 たらふく 食わねばな。」
 漸く解放されたが、大風に揉まれる旗の如く、私の心には落ち着かない音が鳴る。此のヒトは何を考えているのだろう。此のヒトの心は、何を持っているのだろう。彼の横顔に釘付けとなり、私の口から言葉が勝手に流れる。
「貴方の昔話は、どうなのです。」
「ほう、漸く僕に興味が湧いたか。」
 ニヤリ。歪む口許はいつもの意地悪な名義人だった。良からぬ気配を察知し、サッと血の気が引く。
「実は僕ァ、言葉を尽くすよりも身体に直接教える方が得意なンだが、木立クンはどうかね。」
「いえ、あの。」
「僕と君の関係なンだからな。此処なら他所からも邪魔は入るまい。」
 照れる事は無い、と耳元で囁かれる。 領帯 ねくたい を外され、 襯杉 しゃつ ぼたん を二つ外される。アレヨアレヨと組み敷かれ、彼の髪がサワサワと頬を撫ぜた。
 私は確かに、此のヒトに嫌われたくなかった。そして軽蔑されたくなかった。好ましいとも思う部分もある。
 だが、其れと此れとは話が別だ! 
「め、名義人殿っ、私は……。」
「んん? 何を想像している。僕の事を知りたいならまずは——。」

 おほん! 

 やや甲高い咳払い。机が障害となってよく見えなかったが、ひらひら揺れる蘭鋳の帯が視線の先にあった。
「旦那様。お食事でしてよ。」
「草夏クン。……キミ、 一寸 ちょっと 、意地が悪くなったナ。」
「わたくしも、木立様は可愛いお方と思っております故に。」
 蛇と猫の決闘。何故かそんなアオリが私の脳内に刷られた。
 睨みを効かせる鴉蛇! 退かぬは射干玉、金の瞳を持つ黒猫! 今、 ゆうしょく を巡る闘い! 火蓋が切って落とされる! 

 私は耐えきれず噴き出した。