夢玉堂の二階には:参

 紺碧の空。閃光が飛び散り、半拍遅れで轟音が響に渡る。今夜は納涼祭だ。長岡の八幡、横濱の海上には劣るかもしれないが、大層見事な物だった。
「綺麗ですね。」
 仮にも出版社編集者だというのに、月並みな語彙力に嫌気が差すが、そんな物は華々しい光の粒が洗い流していく。
「嗚呼、其の通りだ。綺麗なモンだ。」
 名義人殿も同意した。其れ以外に言葉が見当たらないと言っても良い。
 私達は夢玉堂の屋根に二人して寝転び、花火観賞と洒落込んでいる。
 屋根に登ったのは例によって名義人殿の気紛れだ。子供染みた事がしたいと言って梯子を持ち出したのだ。そして私に浴衣を着せ、彼もまた新しい召し物を着込んでいた。今では 全然 すっかり 崩れてしまっているが、気にも留めない素振りが却って洒脱に見えた。
 ……元はと言えば、この状況は私が花火を観たいと言ったのが発端なのだが。

 カラリ。
 傍らの盆の上で、麦茶の中の氷が溶ける気配がする。

 「良いのでしょうか。」
 こんなに恵まれていて。
 煌めく光の粒は尾を引いて夜空に溶けていく。非日常的な夜にしか言えない、 真宵事 まよいごと は打ち消されたかに思えた。
「聞こえンな。」
 名義人殿は私を乱雑に引き寄せ、腕の中に閉じ込めた。強固な腕枕である。視界に広がるのは、光を浴びて照らされる彼だけだった。彼もまた、私を捉えてジッと見つめる。
「君は賢いのに、物分かりが悪い。」
 乱れた髪から蛇の瞳が覗く。だが其処には苦手とする、射抜く様な鋭さは無い。覆い被さられ、空は隠れてしまった。
 名義人殿の顔が近づく。睫毛が触れ合いそうな距離になっても、私は目を瞑らなかった。
「嫌がらないのか。」
「……今なら。」
 屋台で買った欠き氷のシロップの所為で、余計に赤くなった舌が甘く誘う。夏の夜、互いの汗、呼吸、遠ざかる花火の音……。
「貴方になら、良いです。」
「言う様になったじゃァないか。」
 一際大きな花が咲いたが、其れを背負う名義人殿しか、私の目には入らない。
 私の身体は明らかに高揚していた。それが活力であり、例の力であると、疑う余地は無かった。
 得てしまったが故に、以前の私は《失い尽くした状態》であったと、自覚せざるを得なかった。

 夜花が咲いても尚、昼中に見た極彩色の景色と琥珀色の美しい酒は頭から離れそうにない。

 今日一日を思い返しながら、私はそっと目を閉じた。



「木立クン。君、盆暮れ正月はどの様にして過ごす?」
 珍しく眼鏡を掛け、紳士服を着込んだ名義人殿に疑問を投げかけられる。私は一圓タキシーから見える景色へ視線を宙に浮かせた。
「暮れと正月は戻ります。」
「嗚呼、確かに神社は大忙しだものなぁ。」
 愉快そうに笑う彼の表情は普段と変わらない。私はというと、一張羅を引っ張りだして髪を整え、新しい靴までおろした格好だ。長い足を狭い車内に押し込んだ名義人殿と横並びに座っていると、丸で自分まで高い階級の人種に思えてくる。
 彼とはそれきり会話が途絶え、何か画策をする顔で町並みを眺め始めた。私は手帳に書き込んだ今日の予定表と睨みっこをする。何分、こうした催物に出席するのは初めてなのだ。粗相は会社と名義人殿の評価にもなり得る。過ちは許されない。
「それなら、休みの間、どこか日を作って僕の祝いをしてくれ。」
 思考が止まった。正に、其の場へ行こうという時なのだ。目的地まで、角を二つ曲がった所まで来たところで彼は口元から歯を覗かせる。
「今日とは別に、ですか。」
「僕ァ、社会的地位に対する祝賀パーティーなんてのは、大して興味を持てないのさ。有難いとは思うがネ。」
 不敵に笑う彼は貫禄のある姿だった。時折、虚無主義者的 にひりすてぃっく な言い回しをするが、彼自身は特にそういうつもりは無いらしい。私で良ければ喜んでと苦笑したところで、絢爛なホテルへと到着した。
 犇めき合う車の列に、改めて自分の勤める会社の認知度と、担当である名義人殿の人気を知る事となる。



「エ、御来賓の皆様。本日は日差しの強い中、御足労頂きまして、——。」
 雛壇に登った先輩が司会を務め、編集長が挨拶をし、立食と歓談の時間となった。今回のパーティーの趣旨は、出版数が史上最多となった祝いである。社のパーティーとなっているが、実質は名義人殿に対する謝礼会と言って差し支え無かった。
 私は名刺を配りながら挨拶する。印刷所、出版社、紙卸屋、書店長、ルポライター……ありとあらゆる人間が現れては、作品を絶賛した。例の、私が 素材 もでる だと言った話も好評であった。妙に安堵した。
「嗚呼、本当に良かった。」
「ハッ。名前や登場人物、 してや素材で左右される物は書いてないからナ。」
 加賀アカリ。其れが名義人殿のもう一つの名だった。
 名義人殿は今まで小説以外での露出をしてこなかった。其れが故に、彼の執筆名くらいしか本文以外に人柄を推測するものがなく、大抵のヒトは名義人殿を女性と勘違いしてしまう。女性作家というだけで批判する者も多いが、彼の姿を見た途端に掌を返す様を見ることも屡々。彼曰く、歯牙にも掛けぬ連中を見抜くのに便利だと以前言っていた。同時に、もっと男らしい名にすべきだったと ぼや きもしていたが。
「私は貴方の 執筆名 ぺんねーむ が好きですよ。語感が篝火みたいで。」
「其処まで言うのなら、僕を好きだと言ってくれても良いではないか。」
  ぐらす を奪われ、中に入っていたチェリーを齧られた。最後に食べようと思って取っておいたが、彼の悪戯は何時もの事だ。
「そろそろ貴方の挨拶ですよ、加賀先生。」
「ムゥ。此処で其の名を呼ぶとは、木立クンも意地が悪いな。」
 子供では無いのですから、と宥めつつ彼を壇上側へと誘導する。文字通り、周囲から頭一つ抜ける名義人殿は何故か執筆名で呼ばれる事を好まない。出会った初め、夢玉堂の店長とお呼びしても却下された。夢玉堂の名義人は僕だから名義人殿と呼び給えよ、と寝そべりながら薄荷を吸う彼の姿を今でも鮮明に思い出せる。
「頃合いか。」
 何がですか、と問うたが彼はニヤリと笑うだけであった。嫌な予感がする。何かまた、私を揶揄って楽しもうとする顔だ。さては、執筆名で呼ばれたことに対するお返しかと身構えた。
「今日はウチに泊まって行き給え。」
 大きな掌が私の頭に置かれる。彼の指が柔く撫で、髪先を指に巻きつけて直ぐに離れる。
「二階に招待する。」
 拍子抜けしたのも束の間、サッと血の気が引く。冷や汗が背を伝っていく。夢玉堂の二階、という単語だけで私は震え上がった。
 其の所為で、折角の名義人殿の 演説 すぴーち は頭に一つも入ってこなかった。




 無事、パーティーは幕を閉じた。社員のみの会合が予定されており、私は出席する予定だったが、編集長は愚か社長にまで名義人殿に付いて行けと言われてしまった。どうやら演説で、私は大層持ち上げられて紹介されたらしい。気難しいと自覚している自分に根気よく付き合ってくれる木立氏の助力が無ければ、この様な結果にはならなかったとか、何とか、そんな言い回しだ。外面が其処まで良いのなら私が担当でなくても良かったのでは無いか、とも思ったが、苦言申し上げるタイミングは完全に失した。
 お負けに次の新作に取り掛かりたいから、直ぐに帰って打合せをすると上司ら言い包められ、一圓タキシーに押し込められてしまったのなら、どうやって逃げろと言うのか。魂が半抜けした儘、連れ去られ、私は例の部屋の、重厚な扉の前で立ち尽くしている。
「此の場所は、私はあまり好きでは……。」
「別に取って食う訳じゃない。一杯付き合い給え。」
 今日は僕一人なんでネ。そう言いながら、私の背後から手を伸ばし扉の錠を落とす。木の軋む音と共にゆっくりと開かれて行く。草夏殿は盆過ぎまで里帰りをしているらしい。
「此処で、ですか。」
「此の部屋は、思い出が詰まっているンだ。」
 背の高い、硝子戸次の本棚に、圧倒される空瓶の壁。瓶は瓶でも、掌に収まる様な物ではなく、私が両手で掲げなければ持てない大きさだ。
 窓際にあるアール・ヌーヴォー調の椅子に座るよう促される。猫脚付きの丸机には 波斯 ぺるしゃ 絨毯の様な細やかな模様の 卓袱 くろす が敷かれており、膨よかなタッセルで縁取られていた。
一寸待って居てくれ、と彼は一度部屋を出た。私は妙に軽快な彼の背中を見送るしか出来ず、落ち着きなく外を見遣る。
 窓からの景色に馴染みが無い。いつも来る通りからは、此の建物が遮ってしまい、死角になっている部分だろうと察した。裏庭にあたる部分が見える。離れか倉庫か、こじんまりした古屋があり、其処まで丸石が飛び飛びに敷かれている。まだ日があるのに薄暗く、其の古屋が何なのかは分からない。何となく、ジロジロと観察してはならぬと感じ、部屋へと視線を戻す。
 名義人殿の趣味か、 将又 はたまた 先代から引き継いだものなのか、 伝統的 とらぢっしょなる というか、 形式的 くらしかる というか、浮世離れした彼から想起できる物が少ない様に思えた。 榛摺 はりずり 色の棚や天井は白熱電球に照らされ、バアやテラスと引けを取らぬ洒落た雰囲気であるし、壁紙だって英国風な草木模様だ。然し、胸からやや下辺りの高さから白漆喰の壁紙となっている。……何かを隠すために塗り固めた様な。
 ちぐはぐで 不安定 あんばらんす な造りに、私は 愈々 いよいよ 緊張が増すばかりだった。
鼻唄交じりに名義人殿が戻って来た。盆の上には、杯が二つとフォルムが丸っとした酒瓶、氷、曹達、それから金平糖の小瓶にチョコレイトだった。手慣れた様子で 琥珀火酒 ういすきい と杯を用意する。
「そう言えば、酒を飲むのは初めてだな。イケる口か?」
「さぁ、人並みだとは思います。」
 私の気も知らず、名義人殿は嬉々として杯に酒を注ぐ。私は曹達、彼は氷をたっぷりと入れ、乾杯を交わした。意外な事に、曹達割と甘い物は相性が良いと思えた。暫し無言で其れを味わう内に、固くなっていた身体が少しずつ解れるように思えた。
「僕の昔話をしようか、木立クン。」
 丸机に頬杖を付き、幾らか和やかな顔をした名義人殿は言った。「此の前、聞いてきただろう」と付け足されたので、「良ければ、是非」と応えた。
「僕ァ、子供の頃は身体が弱くてネ。」
 意外な言葉と共に空の杯を差し出されたので、二杯目を注いだ。氷を滑る琥珀色の液体は中で踊る。其れに口を付ける名義人殿の唇は甘美に光って見えた。
「此処も元々は変哲も無い書斎でな。中々外に出られなくて本を読むしかする事が無かった。」
 カラカラと氷と杯がぶつかり、軽妙な音を立てる。重々しい想い出が涼やかに仕立て上げられていく様だった。私は黙って、曹達割りを飲み続けた。
「飽いて、見つけてくれる相手も居ないのに隠れん坊をしたり、……。それでも、埃を吸うのが良くないとされて、結局自室に閉じ込められてしまった。」
 肺が特に弱くてな、と語る彼に悲壮感はない。その頃培った知識があるからこそ、今があるとも言った。
「綾す為にアレヤコレヤ物を貰ったが、結果的に僕は癇癪持ちになってしまった。欲しい物じゃアないから、貰っても嬉しくなくてネ。」
 暫しの沈黙。替わりに、酒を持っていた手が杯から離れ、私の手に触れた。私も何も言わず、緩く繋がれる指先に視線を落とす。
「だから、木立クンが、夢霊を要らぬと言った情動も理解出来る。あの時は、スマンかったな。」
「いえ、もう、謝っていただいた事ですし……。」
 私は途端に恥ずかしくなった。私は大きな勘違いをしていたのだ。彼は何不自由無く育った傍若無人だと思っていた。然し、根底にあたる部分を聞いてみれば、実は心根優しいヒトではないか。弱かった頃をとっくに受け入れ、克服し、得られなかった物よりも自らに向いている事柄で、地位と名誉を得ている。非常に立派なヒトではないか。
 否が応でも自らと比較してしまう。出来る事など何もない自分を振り返り、金平糖を摘んで酒で呑み下した。
「お身体に、もう問題は無いのですか。」
「そりゃアもう、水浴びを好む程度にはな。」
 朗らかに笑む名義人殿の姿に、無邪気な少年の頃から変わらぬものが彼にも在ると、 判霧 はっきり と分かる。手の甲を撫ぜる指先に照れ臭さはあったが、嫌な気分にはならなかった。
「ところで、」
 突如、彼の言葉に呼応するかの如く、耳から全身に痺れの波が走る。いつかに似た感覚。何かが近寄り肌に入り、中を通過する、あの感覚だ。私は思わず立ち上がり、名義人殿を見た。鋸に似た歯を覗かせて、 しな る眼をした彼に後退る。床に擦れた椅子がガリガリと鳴いた。
「金平糖は、美味いかね?」
「名義人、……?」
 ぐわぁんと視界が歪む。辺りはいつからか、淡い極彩色に包まれていた。ドッと汗が噴き出る。何か言葉を口にしようにも、呻き声にしかならない。
 空だったはずの瓶の列には、無数の夢霊が踊り、舞い、本棚の中で振動している。
「君、僕の金平糖、好きだろう。」
 反芻。昔話をしたあの日。そして今。思い返せば幾度となく貰った砂糖菓子。
「アレを食べて、幸せな心地に浸った事は?」
真逆 まさか 、……!」
「察しが良い! そうとも、アレは夢霊の欠片だ。」
 上品に広がる甘味を思い出し、カッと熱が上がるのが分かった。そうとも、何故気が付かなかったのか。アレを食べた時は決まって、幸福と、郷愁と、仄かな喪失に駆られていたじゃないか。そして名義人殿は、一つも手をつけていなかった!
「君が、その大きさの夢霊を受けきれられる器を作る為だったのだ。」
 気付けば、桃色と水色をミルクに溶かした色をした夢霊が纏わり付いていた。思わず悲鳴を上げ、距離をとったが、足が縺れ、壁に縋るだけであった。
「な、何故! 今し方、理解出来ると言ったのは嘘なのですか!」
「嘘ではない。だが、せねばならない時もある。薬と同じさ。」
 以前入り込んだ夢霊よりも一回り以上大きい。子供の頭程もある。熱の尾を揺らめかせるのが見え、逃げようと体勢を立て直そうとした所で、名義人殿に腕を取られ、壁に縫い付けられた。
「観念し給え。」
 囁かれた声に、腰が砕けた。名義人殿の背中へ入ったかと思えば、夢霊は彼を擦り抜けて、私の身体へ埋まっていく。
「あ、あぁっ……!」
 ずぐずぐと痺れる様な、響く様な感覚だ。下腹から溶けて流れ出していきそうな熱さに、堪らなく喉を割く。
「ぃや、嫌です! 言ったではないですか! 私は、そんな物は、要らないと!」
 絡め取られた両手を力一杯弾き、拘束を解く。扉を目指したが、脱力した身体は言うことを聞かず、立ち上がろうとした所でへたり込んでしまった。
 前回とは少し様子が違った。暴力的な嵐の如く、身体中を駆け巡る様な鋭く甘い感覚は無く、丸で湯煎したチョコレイトが体内で溶けるようであった。
 染みる様な、矢張り甘い感覚には猛烈な多幸感があり、私はくらりとする視界に歯を食いしばった。
「何故、私は、今の儘で満足しているのに、何故……。」
 呂律の回らぬ己を律し、名義人殿を睨みつけた。
 確かに欲しかった温もりだった。庇護する者の愛を欲さなかったといえば大嘘になる。然しそれは、私には得られなかった。今更赤子見たく、泣いて縋って体温を求めるなど、自らの惨めさに拍車が掛かるだけである。
「気高い魂を穴だらけにして、最早死ぬのを待つだけの君を、指を咥えて眺めていろと?」
 低く這う声と言葉に思わず顔を上げた。覆い被さられたかと思うと、大きな手が私の顎を掬い、噛み付く様に口付けられた。
「っん……!?」
 接吻の経験は無かったが、想像していたものと全く違う。触れ合うのではなく、唇や歯列を舌で割ってくるものだった。性急な動きに呼吸さえも儘ならなくなる。
「ふぁ、ぁっ、んぅ……、んっ……!」
 喉奥へ何かが流れ込む。先ほど埋まった夢霊の熱源目掛けて、喉を通り、胸を溶かし、腹へ、腰へ、足へと落ちていく。
「あ、つい、っ……!」
「嗚呼、然うだな……。」
 馬乗りにされ、蹂躙する長い舌から逃れようと仰け反るが、首筋を齧られ、より身動きが難しくなっただけであった。当たる歯の隙間からぬるぬるとした名義人殿の舌先が押し当てられ、徐々に躙り寄りながら吸われて行く。
「ん、んん、んっ、ぁ……!」
 再び口内に彼のが侵入してくる。 うね りながら私の舌に絡み、頬壁を撫り、上顎のざらつきを摩られ、私は抵抗らしい抵抗も出来なかった。
「ぁ、だめ、ですっ……!」
「言っただろう。僕は絶対に、君を手離してやらん。」
 燃えている。揺れている。名義人殿の瞳が、強い執着の色に染まっている。絢爛な天井を背景にしながら、ゆっくりと紡がれた台詞に私は爪先まで身震いした。
「はぁっ、ぁ、堪忍、して下さっ……!」
「前よりも心地良いだろう?」
 するりと私の 襯衣 しゃつ に手を遣り、腹あたりの釦を寛げた。彼の手が滑り込み、私の素肌に触れる。
「ひっ……!」
「ホレ、こっちを向け。」
  領帯 ねくたい を引っ張られ、一張羅が皺になる事も構わず深く口付けられる。互いの唾液が混ざり、顎を伝って落ちていく。執拗な刺激と和毛の愛撫に、死にたくなる程の羞恥と快楽に涙が溢れた。
「夢霊の正体はな、心を補う『満たされた魂』の一部だ。」
 口付けの合間に、名義人殿の声が心地良く響く。与えられる感覚を享受し、意思に反して私の身体から抵抗が抜けていく。
「心に開いた穴は、魂の欠損だ。君の魂は蜂の巣と見紛う惨状だ。」
 八角形の連なりを想像し、自らの顔や手足がその形に刳り抜かれている姿を浮かべる。空虚な自分が影に交じり、ジッと見つめてくる気がした。
「君は、君が思っている以上に、重傷なのだ。」
 其の儘であれば死ぬ、と彼は言った。病に侵されるのだろうか。幸運が尽きて事故にでも遭うのだろうか。想像だに出来ぬが、酷く満たされた心地であるのは間違いなかった。
 口内を荒し回っていた彼の舌は、軈て労わるような動きに変わる。おずおずと名義人殿の背に腕を回し、彼の口付けに応えた。
「僕自身から大したモンは、与えられない。だが夢霊なら扱える。……諦めて受け取るンだな。」
 だから、生きてくれ。言外にそう含んでいると確信が持てた。見つめ合った後。小さく頷くと、彼はまた鋭い歯を覗かせて笑った。



 長い間、再度深く接吻を交わし続けた。卑らしい水音と私のくぐもった声、名義人殿の荒い呼吸が入り混じる。二つ、三つと夢霊が入り、私は彼の腕の中で打ち上げられた魚の如く、身体を跳ねさせていた。
 吐いた息と共に弱音が溢れる。
「惨めでは、無いですか。」
 愉悦に浸っているのを隠しきれぬ彼が、私の鎖骨を食む。歯の舌の感触に、私は堪えきれぬ声を漏らす。
「もっとして欲しい事があるなら言い給え。言うだけならロハだ。」
 もっと、抱き締めたい。抱き締められたい。熱を感じたい。共感したい。共有したい。話を聞きたい。話をしたい。認められたい。愛されたい。
 湧き上がる欲求は子供の時分に押さえ込んだものばかりだった。名義人殿に顔も知らぬ父母や鳥羽の兄らの面影を追う。この人なら。この人となら。
 受け入れられる心地良さは眩しく思えた。
「……私と、」
 熱に浮かされた声は、私の物とは思えない。欲の色に濡れている。続く言葉を選びながら、彼と至近距離で視線を交わす。
「花火を、観ませんか。」
 直接的な単語として、とてもじゃないが口にする事は出来なかった。今夜、納涼祭があるのです、と付け加え、彼の肩口に顔を埋めた。顔から火が出そうだ!
 軈て彼は私を思い切り抱き締め、肩を震わせたかと思うと、声を出して笑った。
「良いだろう。僕の浴衣を貸してやる。」
 其の前に、湯浴みとクリーニングだな。耳打ちされ、自分の姿が乱れきっている事に気付く。釦は全て外され、領帯はほどけ、 革帯 べると も緩められており、酷い有様であった。
「祝いの席を設けろと言ったが、アレは撤回だ。盆過ぎまで僕と過ごし給え。」
 意味は分かるな、と添えられる。
 蛙の茹で蛸となり、蛇の据え膳として出来上がった瞬間であった。