夢玉堂の二階には:肆

 暑さが落ち着き、秋の気配が漂い始めた。私はというと、あの一件があってからも、相変わらず名義人殿の担当を続けている。
 盆の間は……何といえば良いか。曝け出すという言葉では足りぬ程だった。彼は、自らを執着が強い性質であると言っていた。其れを思い知らされる日々だった。背や内腿など、衣服で隠れる部分に鬱血や噛痕を残し、哭き叫んで嫌と言えど離される事は無く、声を枯らした朝が幾度となくあった。
  ついで に云うなら、事あるごとに夢霊を与えられた。どういう理屈かは分からぬが、名義人殿に息を吹きこまれると夢霊は私の体内で増幅するらしい。口吻により更に乱され、肌を重ねた。嫌悪感は無かったが、人並みの羞恥心と人並み以上の神経感覚で翻弄され、正しく暴かれたと言っても過言ではなかった。
 それでも、名義人殿の 歩調 ぺーす に合わせた生活は目まぐるしく、面白く、アッと言う間であった。取材旅行という名目で彼方此方へ出かけ、その費用を全て私の会社持ちにさせる辺り、要らぬ知恵を授かった心持ちであった。(尚、その後書き上げた新作はどれも水鏡を 題材 もちーふ とした物で、珠玉の作品となった。)
 草夏殿と入れ違いになる形で、夢玉堂での生活を後にし、今は会社の寮で暮らす日々に戻っている。
「御免下さい。」
 夢玉堂の入り口にも秋が訪れ始めている。風鈴が仕舞われ、月見を見越した品揃えと変わり始めていた。 日捉 さんきゃっちぁ の煌きが、店内の壁に乱反射する。
「御免下さい。」
 もう一度、声を掛けたが名義人殿は勿論、草夏殿も現れない。若しや外出中だろうか。草夏殿が家事全般を請け負っているはずなので、足りぬ物を買い足しに行っているのかもしれない。ふと、あの浮世離れした彼女が商店街を歩く姿を想像し、ミスマッチ具合にこっそり笑った。
 店内を改めて見回す。先週訪れた時よりも品数が増えていた。洋風な猫脚付きの硝子卓はよく磨かれていて塵一つ許さない透明度であった。棚に陳列される 飴壷 きゃんでいぼとる に変わり玉を入れたくなる。 混色模様 まーぶる の煙管が目に入る。名義人殿は意外な事に酒も煙草もやらないが、薄荷を吸っているのは良く見掛ける。単に一服欲しいだけなら、此れで充分だと言っていた日を思い出した。
「アレ、先客かえ?」
 妙な声音で背後から声を掛けられ、慌てて振り返る。其処には白衣を来た男が二人立っていた。片眼鏡に跳ねた髪の男と、純朴そうな青年であった。青年はは大荷物を抱え、汗をしとどに流している。
「いえ、客ではありません。此処の店主の仕事相手です。」
「ホウ。では、若しや、君が木立君かね。」
 もう一人の、片眼鏡の男が私の名を口にする。名義人殿の知り合いだろうか。驚きながらも、慌てて頷く。
「奴からよぉく聞いている。会えて光栄だよ。」
「恐縮です。加賀先生の担当をしております、木立之時と申します。」
「ボクは、奴の友人みたいなものだ。所長と呼んでくれ。」
「その助手です。どうぞ宜しく。」
 求められる儘に握手を交わす。若い男はぐったりとしていたが、快い咲顔を寄越した。
「所長。荷物、降ろしてはいけませんか……。」
「スマンが暫し辛抱してくれ。中身が臍を曲げたら困る。」
 がっくりと肩を落とす助手殿に同情を覚える。何と無く日頃から、私と同じ不憫な目に遭っている気配を感じ取った。私は平均的な背丈と肉付きであるが、二人の背は名義人殿ほどでは無いにしろ高く、スラリとした体型であった。都会的な雰囲気を醸し出しており、科学者と言うよりは文人に親しい 空気感 おーら に思えた。
 其れにしても、荷物が臍を曲げるとはどういう事だろうか。不思議な言い回しに、中身が気になってしまう。
「不躾な質問であったら申し訳ないのですが、その中には一体、何が?」
 助手殿は何かを言いあぐねる素振りをしたが、辿々しく口を開いた。
「夢玉堂への、年に一度の納品物です。その……繊細な、細工でして。」
「拾点。君、それでは何の説明にもなってないぞ。」
 所長殿が店内の椅子に腰かけながら、駄目出しをする。助手殿の顔が引きつって居た。
「関係者には口外してはならないと……。」
「この子は別に良いだろう。加賀が入れ込んでるのだから。」
 左様ですか、と頭を抱えた。とんでもなく申し訳ない気持ちになり、彼に向き直る。
「済みません、軽率に尋ねたりして……。」
「いえ、決して木立さんの所為では……。」
 ペコペコと互いに頭を下げる様子に、所長殿はケラケラと笑った。どうにも雰囲気が名義人殿に似ている。友人と言って居たから、同類なのかもしれない。
「皆様、お揃いで。」
 凛と響く草夏殿の声に、助手殿は救われた様な表情であった。彼女は着物ではなく、瑞々しい黄色のワンピースを身につけて居た。片手に買い物籠を携えて。
「草夏嬢。押しかけてしまって済まない。」
「いいえ。お待たせして申し訳ございません。」
 彼女の洋装は初めて見たが、清潔な色香が立ち上って居た。檸檬が弾む様な爽やかさだ。童女であるのに、達観した瞳や嫋やかな所作が美しい。
「奥の座敷に御案内致しますわ。」
 ニコリとする草夏殿が、丸で女神や天使の類に見えた。そして其れは、疲労只中の助手殿にとっても然うらしかった。



 私と助手殿に曹達が、所長殿には烏龍茶が出された。改めて思うが、草夏殿から出して頂いている品々はサロンに引けを取らない。
「所長、……。」
「ウーン。座っても良いから、抱えた儘でいてくれ。」
 助手殿の顔色がパッと明るくなる。慎重に背負った物を膝に抱え、出された曹達を飲み干した。
「嗚呼、生き返る……。」
「全く、大袈裟だねぇ、君は。」
 苦笑混じりに所長殿が澄んだ茶に口を付ける。御茶請けは月餅であった。簡素な甘味が頬に染みる。助手殿に杯へ二杯目を注ぐと、会釈しつつ、遠慮がちにそれをとった。
「木立さんは、加賀先生の担当をずっとなさっておいでで?」
「そうです。と言っても、私は駆け出しの半人前ですが。」
 彼等との歓談は楽しかった。聞けば、彼等は地下森林なる所で研究をしているという。階下にあるはずの空間には空があり、森があり、見たこともない動植物で溢れているらしい。彼等は其処で取れた木の実などを名義人殿へ納品しているのだという。
「そんな世界があるのですか。」
「疑うかね?」
真逆 まさか ! とても興味深いです。」
 障子から透ける日差しに赤みが増したように思える。残暑はあるものの、風や空に漂う秋の匂いに、先の事へ思いを馳せる。
 過去の自分からしたら今の生活は恵まれすぎている程だ。不思議な世界や、未だ見ぬ景色が山ほどあり、だがそれらは私が行動さえすれば見られる物になりつつある。名義人殿の力を大いに借りて、私は名義人殿に何を返せるのかという考えが、不意に頭を擡げる。
「木立クン、居るかね?手伝ってくれんか。」
 廊下から名前を呼ばれる。殆ど脊髄反射で応答し、部屋から出ると薬品らしき液体が入っている瓶と、奇妙な台座——にしては平たいので皿かもしれない——を抱えた名義人殿が居た。
「白衣の奴等とは、話したか。」
「はい。研究についてのお話を拝聴しました。」
 挨拶もそこそこに、彼は荷を私に手渡す。掌程の台座はずっしりとした質量であり、銀で出来た物であると分かった。
「彼等を連れて中庭に連れて来てくれ。それから、彼等の荷物の中身をこの上に一つずつ載せる。」
 そう言うと、彼は茶の間の方へ歩を進め、ややしてから外へと出る音が聞こえた。言われる儘、彼等を案内する。助手殿の荷物を一つ預かり背負った。かなりの重量だった。
「此方へ。途中、段になってますから、お気をつけ下さい。」
 勝手知ったる——いや、知ってしまったと言うべきか——振る舞いで先陣を切る。中庭に出るには二つ目の八畳間の縁側に出るのが近い。
 突っ掛けを用意し、中庭へ出ると、大振りの番傘下で名義人殿が背のない椅子に座り待機していた。普段出していない広い丸机と、その周りに同じ椅子が他に三脚置いてあった。名義人殿は手招きをして座るよう手振りをする。
「久しいな、所長サン。」
「久しいねぇ、加賀。」
 互いにニヤリと笑い、握手を交わす。独特な雰囲気を持つ二人のやり取りは何故か冷や冷やする。所長殿の瞳は瞳孔が開き気味で、尚且つ眼の力が強い。名義人殿は切れ長だが、三白眼であり蛇を彷彿とさせるため、何やら一触即発の空気に似た絵面になる所為だろうと私は分析した。
「キミも変わりないな、助手クン。」
「お、お陰様で……。」
 助手殿はやや身を引いての握手となった。彼は若しかしたら、名義人殿が苦手なのかもしれない。私も暫く……否や、正直言うと、今でも然うなので、親近感が湧いた。
「木立クン。銀の皿を此処へ。」
 矢張り此れは皿だったのか、と巡らせながら、丸机の上に置く。隙間なく埋めるように敷き詰めると、心なしか微かに輝いている様に見えた。
 助手殿は荷を解いていく。重厚な けーす 、鍵付きの箱、綿を敷き詰めた蓋付き木箱……。丸でマトリョシカ人形を眺めている気分だった。重量の殆どは、中身を保護する類だったらしい。
 無限に続くかと思われた荷解きだったが、柔布の中から試験管を幾つか取り出した所で終わった様だ。
「…… 団栗 どんぐり 、ですか?」
 中に入れられていたのは、奇妙な団栗であった。通常、団栗と言えば秋の風物詩であり、艶のある茶色の表皮を纏ったものだ。然し、此れは。
「綺麗で不思議だろう! 透明で、中には植物が芽生え、そして蛍の光が泳いでいるんだ。」
 興奮気味に所長殿が息巻く。臍を曲げたら困る、と言ったのはこれの事だったのか。
 昼間だというのに、番傘の影中で朧に光る青色に目を奪われる。水の如き透明度であるが、底は濃紺の土が含まれており、青味が強い朝焼けに染まっていた。中心に芽吹く植物の種類は見たこともない物だ。土の色を吸っているからか、柔らかな青い茎を持っていた。涼やかな湖畔を思い起こさせる。
「嗚呼、良かった! 蛍は死んでなかった……!」
 聞けば僅かにでも雑に扱えば、その衝撃で死んでしまうらしい。よって、斯様な装備が必要になったとの事だった。親指程の団栗、計拾余個の為に、擦りへらした神経は如何程だったのだろうか。想像して、少々身震いした。私でいうところの、作者から原稿を何十作品も一度に預かる様な物だろう。
「此れを、どうするのですか。」
「硝子に変質させる。」
 は、と間抜けな息が漏れる。名義人殿が、銀の皿に置かれた団栗の上から、薬品を静かに垂らす。刹那、白い靄と共に氷結していく。息継ぎする間も無く、皿の上は刺々しい結晶が生えた。
「こ、凍った……?」
「厳密には違う。冷たくはないンだ。」
 三人で見守る中、名義人殿の素振りに注目する。先程とは別の、極めて小振りな薬品らしきの瓶からスポイトを取り出し、空中でフウ、と息を吹きかけた。
「……っ!」
「木立さん?」
 ざわざわと背中が粟立つ。膝から力が抜けそうになるのを、助手殿に支えられた。直感的に、結晶へ夢霊が流れ込んでいると悟った。
「そ、れは、何の夢霊なのですか。」
「虫だ。其れも、長年生きて飛び回った物だ。」
 虫。虫と来たか。五分の虫にも何とやら。私の魂は、その虫の夢霊にさえ反応する程、未だ穴が空いているらしい。荒くなる息を整えながら、胸を押さえる。
「さァ、瞬きせずに刮目し給え。」
 パキッ。乾いた高音が響く。かと思うと、中から割れ、中央に液体となって吸い込まれていく。結晶が氷屑となって溶けているらしかった。急激な変化に目を奪われているうち、軈て先程の団栗が表出した。
「ウム、全て成功したな。」
 満足気に笑む名義人殿。良し、良しと拳を握って喜ぶ所長殿。安堵で気が抜け、打ち上げられた海月になる助手殿と反応は様々であった。
 硝子化した団栗は、見た目は先程よりも煌めいて見えた。だが、仄かに光る蛍はちっとも動かなくなっていた。光はそのままに、静止しているのである。
「死んでしまったのですか。」
「イヤ、死んではない。然し、生きてもない。」
 どういう事ですかと質問すると名義人殿は歯を覗かせて笑う。
「同じ時間を行ったり来たりしている。その中でな。だから劣化せず、澄んだ色の儘だ。」
 変質した団栗に何故か背筋が寒くなる。ゾッとする程の美しさだ。透明度は水よりも高く、青は一層深みを増している。間違いなく魅力的な逸品である。
 綿で一つ一つ丁寧に包み、木箱へと仕舞う。人気ある商品で、高値で売れるらしい。買えるのは限られた極少数との事だった。
「サテ、加賀よ。草夏嬢の飯に在り付くつもりだが、構わんよな。」
「言うと思ったヨ。」
 年に一度の納品と言っていた。彼等の再会を喜ぶ様子が微笑ましい。だと言うのに、私の意識は何時迄も硝子の木の実に固定されていた。
「具合が、良くないのですか。」
 身軽になった助手殿が私を気遣ってくれた。傾きかけた陽に照らされる彼は、安心感があり、固くなった心が幾らか解れた。
「いえ、大丈夫です。」
 其れよりも、助手殿は苦労してそうですね、と耳打ちすると、きっと僕たちは似てますね、と返答され、思わず笑い合った。