夢玉堂の二階には:伍

 秋深まり、空は高く。埃っぽい大通りは相変わらずだったが、銀杏が色付き、錦の道が出来ていた。私はと言うと、夢玉堂の店番をしている。先週から、私は寮を出て名義人殿と共に暮らし始めた。草夏殿も住み込みで働いて居るので、仕事が休みの日は彼女のちょっとした手伝いをしている。目の前の丁字路も銀杏の落ち葉が敷き詰められ、優しい黄金に輝いていた。
「草夏殿。表を掃き終わりました。」
「御苦労様。少し早いけれど、お つにしましょう。」
 割烹着を着た彼女は、矢張り可憐であった。私は名義人殿と関係を持っているが、女性に興味がないわけでは無い。美しい女性は目の保養である。
「ねぇ、木立様。込み入った事をお聞きしてもよろしいかしら。」
 茶の間の小ぢんまりした 卓袱台 ちゃぶだい の上。滑らかな白い手がロシヤ菓子へと伸びる。私も其れに倣い、一等甘いジャム部分を齧りながら、頷いた。
「旦那様、夜はちゃんと優しくして下さってる?」
 思い掛けない言葉に噎せ、 はげ しく咳き込んだ。茶で流し込み、呼吸を整える。浮世離れした魅力を振りまく彼女から繰り出される俗物的な話題に、私は目を白黒させた。
「そ、れは、そのっ、夜、と言うのは……。」
「やぁねぇ。此れじゃあ、どっちが生娘だか分からないわ。」
 コロコロと鈴が鳴る声音から想像出来ない事を話題にしている。私は顔から火を噴き出し、机に突っ伏した。
「……元はと言えば、私から、ですので。」
 蚊の鳴くような声だった。もう秋なのだ。自らの声を叩き潰したくなる衝動を押さえる。
「木立様。わたくしは、貴方の事を弟みたいに思って居りますの。」
「弟、ですか。」
「もし、旦那様にいぢめられて、嫌な思いをした時はちゃあんと言うのよ。」
 恐らく私よりも年下の女性にそう言われ複雑な思いがあったが、事情を知って居るヒトからの理解は心強かった。顔を上げると、草夏殿の瞳が猫の如く金色に輝いて見えた。
「此処に来る前の、わたくしの話をしましょうか。」
 手を重ね、子供に語り掛ける様な口調だった。不思議と聴き入ってしまい、次の言葉を待つ。
「わたくしね、 下総 しもうさ の辺りが出身なの。何も無いところだったけれど、其れでも幸せだった。優しい両親に、仲の良い兄妹が居たわ。」
 けれどね、と何か言葉を選んで語ろうとして居る。
「……その生活は、砂上の楼閣だったの。今わの際になって、其れに気が付いた。」
 今わの際? 病か何かを患ったのだろうか。其れとも酷い怪我を? 瑞々しい彼女から、その様な気配は無い。素肌は虫刺され一つなく、きめ細やかである。怪我の跡があるとは到底思えない。
「気が付いてからは、わたくしは辺りを彷徨って……。そんな時に、旦那様に拾われたの。」
 きっと、憐れに思ったのでしょうね。そう言って寂しそうに笑う彼女に、胸が締め付けられる。さらりとした手を取り、包む様に握った。儚げな彼女が消え入りそうに思えたからだ。
「わたくしは、ヒトとして人生を全うしたいと思いましたの。だから、此処に置いて貰っている。」
 ヒトとしての人生を。その気持ちは共感できる。人並みに暮らす事の何と幸せな事か。私も今、その只中におり、お陰で充実した日々を送って居るのだから。
 チリン、と何処からともなく鈴の音がする。風鈴はもう無いはずだ。反射的に草夏殿を見ると、断片的な映像が、網膜に焼きつく。
 黒い髪。赤い髪帯。伏した視線。跳ねる蘭鋳。蒸し暑い夏。
 飢餓。汚泥。苔石。 手燭 てしょく 。小さき子ら。簒奪。解体。鮮血。慟哭。黒。赤。金。

 金の瞳の、黒い猫の、断末魔。

「——っア、」
 見てはいけない物を見てしまった。直感でそう感じる。汗が噴き出し、目を見開く。今のは、真逆。そうだとすれば、私は。彼女は。
「……何か、見えたのなら、其れは誤りでは無いわ。」
 彼女の瞳は元の漆黒であった。黒目がちの吸い込まれそうな瞳だ。取り乱しそうになる私を宥める声音であった。
「時期が来たら、貴方の生まれた土地へ赴きなさい。」
 細かな住所は覚えて居ないが、身体は覚えている。川の側、水車小屋の二つ先の屋敷。分家が取り仕切る様になってから、恐らくは両親、祖父母の墓は良くて最低限の供養しかされて居ないだろう。親族の顔すら朧げで、碌な葬いもせず、何が人並みなのだろうか。
 途端、申し訳なさと居た堪れなさに涙が込み上げる。
「こら、男の子が簡単に泣くんじゃありません。」
 彼女の小さな手が私の目を覆う。思ってもみない感触が却って涙を誘い、耐え切れず落涙した。
「焦る必要はありませんわ。時期が来たら、でしてよ。」
 何処までも優しい声と体温に、鼻を一つ啜った。

 確かに、このヒトは私の姉かもしれない。



 名義人殿と顔を合わせたのは夕方になってからだった。住み始めてから分かったことだが、彼は書きたい話が浮かんだ時は、自室に閉じ篭って一気に書き上げる。食事や睡眠は時間に依らず適宜とっているらしく、健康的な生活とは言い難い。草夏殿の支えがなければ成り立たぬだろう。
「嗚呼、腹が減った!草夏クン、何か直ぐに摘める物を頼む。」
 もうすぐ夕飯であるが御構い無しだ。
 旦那様、生憎ですけど糠漬けくらいしかありませんわ。問題ない、それを頼む。水も塩も足らんのだ。
 遣り取りは軽妙であり、一気に賑やかになった。
「木立クン。君ン所の雑誌、連載が載せられる月刊誌か週刊誌は無いか。」
 爪楊枝に胡瓜の輪切りを刺した物を片手に、私の前に座り込んだ。冷たい茶を淹れながら「連載ですか」と聞き直せば「そうとも。とても一度では書ききれん」と頭を掻いた。
「編集長へ問い合わせて見ます。ウチの会社内でも週刊誌を作る試みがあるので、寧ろ此方からお話するかもしれません。」
「何と! 渡りに船だ。是非、実現してくれ給え。」
 上機嫌にツマミを齧り、咀嚼する。用済みになった爪楊枝を屑篭へ放ると、今書いている話の粗筋を話し出した。 筆記本 のーと にメモを走らせる。
 彼が小説の話をしている時は丸で少年の様な瞳で、光の粒を瞬かせる。私は私で(殆ど素人感覚の) 疑問点や不明点をぶつける。彼は呆れたり小馬鹿にする事なく、丁寧に解説してくれる。名義人殿との仕事の話は大抵、斯様な形で進む。
 側から見れば、作家が作り上げた世界観をただ聴く能無し担当か、或いは、幼子が話す想像の世界を聞く母親の構造に見えるかもしれない。
「旦那様。木立様。区切りを付けて、お食事にしませんか。」
 割烹着を解いた草夏殿が苦笑しながら手を叩く。我々もまた苦笑した。腹の虫は正直であり、彼女の料理が待ち遠しかったので、素直に従った。
 食卓を囲む空間は、平和であり、平穏である。
 所謂家族の様な温かさに、これが団欒であると知る。無論、神社住まいの頃も集団での 食事はあったが、此れ程の親密さは無かった。家族は役割に限らないと知る幸福に、目の奥がジンと熱くなるのを覚える。
 新しい生活の日常に眩さを感じ、私はその幸福を噛み締めた。



 夜半ば、寝苦しくて目を覚ます。じっとりと汗をかいていた。大分過ごしやすくなったというのに、今日に限って妙な閉塞感を感じ取った。
 水を飲もうと、寝室から忍び出でる。夢玉堂は広い。草夏殿の部屋は中庭を挟んで向かいの棟、名義人殿のは私の寝室から五つ離れた部屋だ。
 ふと、外を眺める。月が明るい。叢雲は無く風もない。良い月であるが、強く睨みつけられている様な気分になり、目を背けた。
  水甕 みずがめ から一杯汲み、貪る様に飲み干す。劇しい渇きを自覚し、もう一杯、という所で手が止まる。水面に、些細だが、確かな違和感を感じたのだ。
 波紋が静まるのを待って、良く良く目を凝らす。青白い私の顔。妙に やつ れており、隈が酷い。何度か瞬きをしてみたが様子は変わらぬ。昼間はこんな、生気のない顔ではなかったはずだ。そんなにも寝苦しかったのだろうか。
 水面を覗き込んだまま、自らの頬に触れる。触覚から察するに、見た目ほど水が抜けた様子は無い。それよりも、先程よりも強烈な違和感に身が固まり、起こり得ぬ事実に気付いてしまった。思わず声を上げ、勢い良く飛び退いた。
 水鏡であるはずなのに、水面の私は、同じ動きをしなかった。映り込んだ私は、身動きとらず、ジッと此方を射抜いていたのだ。
 月明かりに照らされた甕から青い白い手腕が伸びる。ざぱり、と静かに、だが確かに、私の目の前に水面の私が現れた。
 声が出ない。どころか腰が抜けてしまった。叫びにならぬ声が歯抜けな呼吸として漏れるだけだった。
「……名を……か。」
 様子を窺っていたが、何か危害を加える風では無かった。何かを呟いている。気が付けば、彼の声を拾うべく、耳のラヂオのチャンネルを合わせるが如く意識を集中させていた。
「名を、……、居るか。」
 遠い処から、近い処から声が聞こえる。屍と見紛う様な枯れ木の四肢が、夜の影の中で模られている。
「私の、……名を、……。」
 両目から何かがどろりと流れ出た。その窩に眼球はなく、ぽっかりとした 昏病 くらやみ の底が横たわっている様だった。血か涙か、はたまた彼の内容物か。見た目から今の私とはかけ離れていても、それは私だと断定できる。あれは過去の私だ。脳内の聲がそう告げる。ああなるまで気付けなかった事実に、胸が詰まる。

 私の、名前。

 木立之時という名は、神社で新たに付けられた名であり、今の私の名だ。見世物屋から逃げ果せ、今に至るまでの間の私の名だ。
 生まれ落ちた時に付けられ、祖母に呼ばれていた名。それとは別に、父母によって用意され、終ぞ呼ばれぬ、私の忌み名。親しいヒトも、近しいヒトも、私には最早居ない。
 ……過去は捨てた。過去から逃げた。そして今は名義人殿に預けている。それでも手放しはしなかった、私の名前。
「覚えているとも。」
 不思議と落ち着いていた。声の震えは無い。這う様に近づいて、彼の手を両手で包む。脚に力を入れて踏ん張れば、水面の私は、ふた回りほど華奢な身体付きであった。
「己が生まれを疎もうと、己が じゅ を厭おうとも、己を見限りはしない。」
  高天原 たかあまはら し坐して天と地に 御働 みはたら きを現し給う龍王は 大宇宙根元 だいうちゅうこんげん 御祖 みおや の御使いにして一切を産み一切を育て……。
 龍神祝詞。三つの時から雨降師として振る舞いを叩き込まれ、真っ先に覚えさせられた祝詞の一つ。焚く炎の揺らめき。 いななく く音はやがて爆ぜ、 猛火 たけび となりて、一つ試練を くび るもの。神より賜る雨風の一つ。
「猛き炎が嚥下し つく す咽喉笛へ、篠突く雨を天より蒔きて、流るゝ朔の暁とせよ。
 ……篠突く雨の、篠。お前は篠だ。私。」
 月明かりが途端に遮ぎられ、辺りは真っ暗となる。急激な眠気に、膝から力が抜けていく。否、膝だけではない。声を上げる間も無く、呼吸と共に脱力が進む。丸で魂が抜けていく様だった。
「篠、……。」
 空洞の目元が僅かに笑んだ。恐れはない。不愉快でもない。只々、私は私を認めるしか出来ず、私の前に跪く。
 彼の姿を見るうち、どうしようもない庇護欲に駆られる。彼は私だ。私は彼だった。ならば、私しかこの存在を受け止められぬのだから。
「御出で。」
 手を伸ばし、私を引き寄せて抱き込んだ。氷の像を抱いている様だ。体温が奪われ視界が歪んでいく。脱力する速度が増していく。
 小さな私は腕の中で溶けていき、私自身もその場で意識を手放した。



 心地良い中で、緩やかに目を覚ました。身体の浮遊感と、一定間隔に揺れる人肌の中だった。微睡んだ儘、静かに目蓋を開ける。着流しの逞しい胸元、焚き染めた香の匂いに、名義人殿に抱えられているとわかる。
「目が覚めたか。」
 名義人殿の声に瞬きをし、静かに視線を上へと向けた。台所で意識を失した事を思い出す。
「めい、……。」
 喉が張り付いて上手く発音できない。横抱きされている気恥ずかしさと、 態々 わざわざ 運んでもらっている申し訳なさに襲われる。
「二階へ上がるからナ。」
 その台詞は、夢霊を与えられる事を指し、また肌を重ねる事も指す。赤面し、身が固くなる。
 一番奥の部屋に連れられる。古い薬箱を開けた様な匂いのする部屋だった。手狭な造りで、小棚と布団が置かれている。仮眠用の部屋だったらしいが、今では私が夢霊を貰う所と化している。
 布団にそっと下ろされた。暗い所為で彼の表情が見えないが、何時もより丁寧に扱われている気がした。
「口を。」
 そう言われ私はおずおずと口を開いた。夢霊と共に彼の息を吹き込まれる。名義人殿の舌も差し込まれ、濃厚な接吻となる。
「ン、……!」
 ぞくり、と腰に響く刺激だった。長い舌は私の口を大きく開かせ、飲みきれない唾液で溢れる。
「はっ、……ん、ぁ……。」
 甘い。濃い。切ない。乾いた土が水を貪欲に吸い込む様に、夢霊を心の底から求めている。感覚に溺れる。初めての事だった。今迄、夢霊に味や感情を感じた事は無かった。熱いと感じる事しか無かったはずだ。
「め、ぃ……っ。ん、んんっ……!」
 次第に、烈しく、深度を増す口付けに、彼の息も乱れていく。互いの衣服を緩め、素肌に触れ合ってゆく。
「全くキミは、無茶をする。」
 何がですか、と問う暇は与えられなかった。息つく間も無いほど、私の口内が犯されていく。
「んっ、ん……!ぅ、っ……!」
 私の弱点は上顎にあるらしい。そこを名義人殿の蛇の様な舌でなぞられると、手足の指先まで痺れてしまう。小棚に仕舞われた瓶が微振動を起こしている。カタカタと小さく鳴る音と、自らの震えが連動している様に思えてくる。
 いつかこの瓶は割れてしまうのではないか。唐突に、前触れもなく、 こわ れるのではないか。今迄の様に。肉親が死に、近親者も死に、鳥羽の兄が死に、 到頭 とうとう 団員が死んだ様に。人は毀れる。日常も。遂には今の私でさえも……。
 急に恐ろしくなり、顔を背けようとしたが許されなかった。後頭部に彼の手の平が這い、髪を掴まれる。
「逃げるな、木立クン。」
 強く言い咎められる。溢れた涙も拭えず、熱っぽい息を肩でしながら無言で彼を見つめた。何か思案している様な表情であったが、軈て普段の名義人殿の表情となり、私の耳許へ口唇を寄せる。
「何時も言っているだろう。何をして欲しいか、自らの言葉で云い給え。」
「あ、……っ!」
 過敏になった身体が跳ねる。肩から胸へ指が滑り、腹を辿り、腰骨を伝い、内腿へ……。
「めいっ、めいぎに、ん、っ……!」
 彼は意地悪だ。嫌だと言っても与え、限界という所で与えない。焦れた私は半ば自棄で、彼に縋るしか手が無くなる。
「触れて、」
 辿々しい言葉を注ぐ。失望や軽蔑の恐れより、枯渇が勝った。
「もっと、触れてっ、私を愛して……下さい……っ!」
 泣き ぐず る私に満足したのか、彼の瞳が満足気に歪む。鎖骨を舐り、首筋に牙を突き立て、卑猥な音で啜る。堪らず身をくねらせるが、彼を悦ばせる仕草にしかならなかった。
「嗚呼、良い。 可憐 いじ らしく附して、哀れにも恥じて。はしたないなァ、木立クン。」
 淡い極彩色が辺りに充満する。呼吸だけで心が掻き乱される。もっと、もっと。私が今の私でなかった頃、失った全てが埋まるまで、もっと。
「何度でも分からせてやる。与えてやる。」
 加えられる愛撫と夢霊に思考が白く焼き付く。捨てないで、守って、愛してと 譫言 うわごと を繰り返しながら、私は金平糖の如く甘い世界に溶かされていく。

「愛してやるとも、——……。」

 彼の口から、慣れぬ名を呼ばれた気がした。