夢玉堂の二階には:陸

  木枯 こがらし 、朝方の大通りを吹き抜ける。冷えが足許から感ぜられる季節になり、冬の香りが日を追うごとに強くなる。朝日を浴びながら、習慣化した表の箒掃除に勤しんでいた。
 生活が落ち着いてきたのもあり、世話になっていた神社へ先週手紙を出した。今は加賀アカリ先生の家にお世話になっていること。私の社内での評判は上々であること。年始年末は帰る予定であること。認めている間、春から今迄にかけて様々な事があったと思いを巡らせる。
 未だ、名義人殿と出会ってから一年に満たぬのだ。濃厚な日々に五年程は付き合いがあるのではと錯覚する。現実離れした事があまりに多かった。それと同時に、名義人殿について、殆ど何も知らぬと気付かされた。
 彼の好物や性格、生活 様式すたいるについては知っていても、彼の本名や出身などについては聞き及んでいない。今更聞くのも妙だろうかと考えてしまう。
 名義人殿だけではない。草夏殿に至っても、過去について少し教えて貰ったが核心に触れる部分は伝えられていない。金の瞳に輝いて見えたのも、焼き付いた断片的な情景についても、真実を確かめることはなかった。
 いや、正しく言えば出来なかった。それを明らかにしたら今の日常が崩れる気がする。根拠は無いが、何か決定的な部分に当たると感じていた。
「木立クン。お早う。」
 ボサボサ頭に着崩れた浴衣。何時もより乱れた名義人殿がのそりと現れる。肌蹴た素肌に、よく冷えないものだと妙なところで感心してしまう。均整の取れた肉体は逞しく、だが欠伸混じりの姿は何処か幼く見え、端整な顔には愛らしさがあった。
 年上で大男の、しかも家主である彼に対する感想としては相応しくないかもしれない。其れでも尚、湧いてきた愛おしさに負けて彼の髪を撫で付けた。
「お早うございます。随分早いですね。」
「ンン。イヤ、これから寝るところだ。」
 簡単に髪を整える。彼は特に嫌がる素振りもなく為すがままであった。蛇の瞳は眠気に負けて、今すぐにでも瞼がくっつきそうである。
「此れ、持って行き給え。」
 紐に通された紙の束を渡された。執筆中である連載の最新作だ。〆切まで未だ余裕があったが、いっぺんに書き上げたのだろうと察する。彼の頬を手の甲で摩ると、寝不足からかぽかぽかと温かかった。
「ありがとうございます。今日はゆっくりなさって下さい。」
「ウム。」
 大欠伸をしながら伸びを一つして、彼はのそのそと室内へ戻って行った。原稿を渡す為だけに、私の元へ来たと考えると、心が擽られるような気持ちになる。
 清々しい朝だ。霞みがかった雲が広がる空は、太陽の光により反射して、いつもよりも明るく見えた。
 
 定刻よりも早く出社し、室内の掃除をする。下っ端である私の、仕事の一つだ。慌たゞしく社員が仕事すればするほど、掃除のやり甲斐が出る。開け放たれたままの引き出しに、放り出されたままの書類や資料をしまい、文具を整える。便所や会議室も忘れてはならない。それから我が社の看板も。
 元より清掃や整理整頓は慣れていたし、得意であった。神社住まいの時は、只管長い廊下を雑巾掛けし、広大な敷地内を竹箒で掃きまわった物だ。実家といっても差し支えない神社から、そろそろ手紙の返事がくるだろうかと想いを馳せる。
 ガチャン、と扉の音がした。誰かが出社したと分かる。この時間であれば、思い当たる人物はただ一人だ。湯を沸かした薬缶と湯呑みを携える。
「オウ、木立。今日も早いな。」
「編集長、お早うございます!」
 直角のお辞儀をすると、何時迄も大袈裟な、と笑われる。気前の良いこの人に私は拾われたも等しく、文字通り頭が上がらない存在だ。
「昨日仰っていた資料は此方に。本日拾時よりマルハチ様と喫茶店で打合せ。それから名義人……いえ、加賀先生から次の原稿を預かって来ました。」
「オウ。」
 丁寧な動作で取り払われた中折れ帽子の下から、薄雪が積もった様な頭髪が現れる。席に座るとともに編集長は煙草を点け、原稿に目を通し始めた。彼の湯呑みに温かい茶を注ぐ。
「然し、何だ。加賀センセとは上手くやっているようだな。」
「はい!有難い事にとても協力的です。急かさずとも次から次へ原稿を頂いておりますし、寧ろ少しゆっくりでも良いとさえ思います。」
 直接褒め言葉を貰ったら、素直に嬉しいに決まっている。
 我が社は私が入社する前から、名義人殿へ執筆の打診をしていたらしく、説得に長い事掛かったと先輩は言っていた。どんなに金を積んでも靡かないし、どんなに煌びやかな特権を付けても一笑されて跳ね除けられたのだと言う。そんな彼が、今では祝賀会で皮肉の無い良い演説し、その後も続々と書き上げてくるのだから、会社としてはこの上ないだろう。
 ……演説に至っては、名義人殿が私と二人きりになりたいが為に行った、ご機嫌取り――丸で猫の喉をくすぐってやっただけ――に過ぎないとしても、事実は事実なのだ。
「嗚呼……、イヤ。そうでなくてだな。」
 ま、座って茶でも飲め。そう促され、自分の分の湯呑みに薄茶を淹れる。温かさにホッとする心地がしたが、直ぐにそれは打ち破られた。
「イイ仲なんだろ?加賀センセと。」
 噴き出しそうになるのを堪えたら、舌を火傷した。ジタバタする私をカラカラと笑う。
「なっ、なん、何を仰るのです!」
「隠さんでもエエ。社内じゃ専ら有名だとも。」
「ええっ!」
 刻まれた頬の皺がより一層笑みを深く見せる。白髪混じりの髪を撫で付け、二杯目の茶を淹れた。
「そら、あの気難しいお人と一緒に住むなぞと言い出したら、誰でも思うぞ。」
「いえっ、それは、そのっ!」
「最初はなぁ……弩新人のお前さんを指名された時はどーなるかと思ったモンだが、真逆そうなるとは驚いた。」
 染み染みとする上司にこれ以上どう言い訳をしろと言うのか。
 真実であるし、本当の事ではあるが、否定しなければ名義人殿の名に傷が付く。情事騒動すきゃんだるなる物は、人気作家である彼にとって良いもので無いのだ。
「あまり妙な事は、いくら編集長であっても仰らないで下さい。」
「まあ、そう言うな。」
 新聞を広げながら、編集長はまた笑う。腹の底が見えぬ人だ。良い人なのは間違いないのだが。
「そうだ。お前さん、出張へ行って来んか。加賀センセと一緒に。」
「出張ですか。」
「センセの出身地へ行って、彼の系譜るーつを辿って欲しいんだ。問い合わせが多くてな。」
 おもむろに飛び出た仕事内容は十中八九断られる、と判断できるものだった。難しいと思いますが尽力します、と言って項垂れる。
「木立よ。」
 畏まった声で呼ばれ、顔を上げると編集長は穏やかな表情で笑んでいた。
「今の生活は楽しいか。」
 今の生活。出版編集者として有名作家の担当となり、社内の評価も上々。その上、今では担当以上の感情を持って、彼と接し、良い日々を過ごす、今の生活。
「……はい。とても。」
 それはもう、思わずはにかんでしまう位には。
 編集長が私を入社させなければ、得られなかった物ばかりなのだ。感謝もあれば、恩もある。成ればこそ、矢張り名義人殿を説得するしかないと奮い立たせた。
 
 
 ◆
 
 
 起き抜けになるのは予想できた。何せ名義人殿が床に就いたのは太陽が出きった朝方だったのだ。ぼんやりしている所に、出張の話を切り出したとしても突っぱねられるのも想定内だ。
「厭だ。」
 然し、予想できた所で全ての対策が取れるかと言われれば是では無い。
「そこを何とか……!」
 案の定、名義人殿への説得は暗礁に乗り上げかけていた。彼の好物であるカステイラの箱とならんで、私は只管頭を平にしていた。
「僕ァ、好きな話を書くだけだ。その上で君らの雑誌に付き合ってやっても良いという姿勢すたんすなンだ。インタヴューに何時ぞや応えてやったのは、単に君が気に入っているから、サァビスしただけだ。」
「分かっておりますとも。」
 吐き出される薄荷の匂いが何時もより強い。間違いなく苛立っている。
「名義人殿を詮索するつもりはありません。何を紙面に載せるかは相談の上、編集致します。」
「……其れでも、厭だ。」
 プイと外方そっぽを向かれ、それ切り黙ってしまう。片膝を立てて窓際に坐り込む姿に、どう接すれば正解なのか解らなくなる。
 夜の灯りがチラホラ灯る路地前は人の行き来がまだあった。足音やヒトの声が聞こえ、日常だけが過ぎて行く。
 滔々と過ぎる平和は、平穏を齎すだろう。だが、この時を逃したら、彼について詳しい事を知る機会は一生来ない気がする。何か確証がある訳ではない。然し、掌から溢れる様な感覚には覚えがある。
 そっと名義人殿の側に坐り、彼の左手を取った。
「私自身も、貴方の事を知りたいと思っています。」
 手が熱い。彼は見た目の印象に反して体温が高い。夕闇と肌寒さが辺りを包んでも、浴衣だけで事足りるらしい。
「名義人殿。」
 外を見たままの両頬に手を添える。やや強引にこちらを向かせた。頬を挟まれたせいで少々間抜けな表情になっていた。鋸の歯が覗くこともなく、蛇の目はちょっとした驚きに満ちている。
「私の名を、お知りになったでしょう。」
 篠だけではない。もう一つの名前。私自身がそれを名乗る事はないし、本来呼ぶ人も居ない。彼はそれでも、私の名を知り、その名で呼び掛ける意味を理解していながら睦言の中で囁いたのだ。
「少しくらい、私も知りたいのです。」
 駄目ですか。
 暫く無言で見つめ合う。此れは最早、強行突破だ。睨めっこと言っても良い。
 軈て、名義人殿が深い溜息を吐いた。バツの悪そうな顔でガリガリと後頭部を掻く。
「カステイラ、夜中に開けるから付き合い給え。」
「はい。」
「それから、木立クンを連れて行くのは良い。紙面に載せるかどうかの判断も君が直々にしろ。」
「畏まりました。」
「序でに取材も兼ねるからな。経費は上乗せしておいてくれ。」
「心得ました。」
「それからな、もし僕の実家にまで顔を出すと言うのなら……。」
「名義人殿。」
 正座に直り、真っ直ぐに向く。蛇の目が全く恐くなくなったかと言われれば嘘になるが、決して嫌いではない。寧ろ、今ではより一層尊敬が含まれる感情に変わった。
「ありがとうございます。」
 ある種、畏怖とも言える。だからこそ、私はこの人のファンであるし、担当でもある。そしてそれ以上の信頼を寄せられるのだ。頭を深く下げる。
「ン。」
 ぶっきらぼうに、私の頭に置かれた手は、やはり温かかった。くしゃくしゃと撫でられ、思わず笑ってしまう。
 胡座になった彼は少し呆れているような表情だった。膝を軽く叩き、側に寄る様に催促される。腕を伸ばすと、グイと強い力で引かれ、彼の腕の中へすっぽりと収まった。
「全く、僕と対等であろうとするなど、君くらいしか居ないだろうナ。」
「いけませんか。」
「イイヤ。」
 至近距離でのやり取りに、私の心臓が跳ね回る。薄荷と彼の香りが混ざり、心地良さに満ちている。肩口に顔を埋めていると、後頭部の髪を引かれ上を向かされた。
 彼と目が合ったかと思うと、其の儘触れるだけの口付けをされる。
「夏ぶりの二人旅となるンだ。楽しませてもらうからナ。」
 返事が出来なかった。蛇の活き餌、という単語が脳裏を掠める。
 編集長には出張手当を弾んでもらおう、と現実逃避に近しい考えを浮かべながら、彼の戯れを甘んじて受けた。
 
 ◆
 
 冬の海は初めてだった。轟々とする風を割って船は進む。昼前から乗り込んだが、到着は天候によっては明日な夜になるかもしれないと、乗員から案内あなうんすがあった。
 客船は豪華の一言に尽きる。内装は丸で喫茶室。外装は白と紺を基調とした亜米利加様式あめりかんすたいる。週に一度しか出ない汽船は私にとって何もかもが新鮮であり、筆記本に片っ端からメモをしていった。デッキから臨む物は海と空しかなく、思い出した様に遠くで漁船が白波を蹴立てているのみであった。
「ヤレヤレ。僕を放って、何をしているかと思えば。」
 のしっと背中に重量が掛かる。蛙が潰れたかの様な間抜けな声が漏れたが、筆記本と万年筆の位置が崩れぬ様、意地で耐えた。
「仕事熱心なのは感心するが、天候が安定していない。そろそろ中へ戻り給え。」
 耳許で吐息混じりに囁かれ、私は息を詰めた。照れ臭さと恥じらいが綯い交ぜになり、身体を弾けさせる。
 その様子に満足したのか、彼はくつくつと喉を震わせて笑った。
 小さな格子柄の長羽織と黒瑪瑙の羽織紐。鼠色の着物が白い肌に映える。普段とは違う余所行きの装いに、見惚れそうになってしまうのが悔しい。眼鏡の奥には何時もの、何か悪戯心を含んだ四白眼が光って居た。
「暇さえあれば揶揄うのを、そろそろやめませんか……。」
「ンン? 僕ァ、いつも通り接しているだけだとも。大体、僕と君の間柄で今更何を恥じるのか。」
 腰に回される掌はスラックス越しにも温かい。それが余計に、触れられている事を意識させられる。人目を憚らず尻を揉まれ、私は短かい悲鳴を上げた。
「嗚呼、本当に君は揶揄い甲斐がある!」
「矢張り、そうなのではありませんか!」
「まァ、そう言うな。何方にせよ二人きりなのは変わらンのだから。」
 若しや、名義人殿は浮かれているのだろうか。ちょっかいの出し方が余りにも露骨である。
「さぁ、部屋に戻って仕事の話でもしよう。」
 ギラリと光る鋸の歯に冷や汗が伝うが、どうせ何処にも逃げ場は無いのだ。力なく頷き、為す術なくデッキを後にした。
 
「さて、何処から話したものか。」
 船の中の個室でも名義人殿は薄荷を味わっていた。窓側に設置された椅子と机がぼんやりとした灯りに照らされる。
 船内とは思えぬほど広々とした部屋に大きな寝台べっどが一つ。それから丸机、内閣きゃびねっと。機能以上に細微な調度品に目が昏みそうになる。
 これらを経費で……と考え、私は頭を振った。会社にとっての収穫がなければ自腹で払うことになるのではないかと冷や冷やする。
「まず、夢玉堂は母方の血筋の持ち物だ。」
 椅子に腰掛け、脚を組んだ姿は写真映えするだろう。キャメラを借りてくるべきだったかと一瞬考えたが、放たれた言葉を逃さぬ様に万年筆を取る。
「初代は僕の曽祖父、先代は祖父にあたる。が、先代は五十そこそこで死んでしまった。暫く別の人間が管理していたが、後に暇していた僕が後に指名された。」
 一瞬、時系列が分からなくなる。この人の年齢は、そういえば幾つなのだろう。三十路前後にも見えるし、老成した物言いから四十路過ぎにも見える。
「名義人殿のお父様は、どんな方なのですか。」
 その言葉に名義人殿は考え込んでしまった。不味い質問だっただろうか。不安が駆け巡ったが、彼から苛立つ様な気配は無いので、ジッと身を固めて待つ。
「……何から話したものか。」
 一言では言い表せないのだろう。内容を察する事は出来ないが、何か言葉を選んで居るのだけは分かる。
「夢玉を扱えるのは何故だと思う。」
「えっと……。念力や、神通力の様なものでしょうか。」
「まァ、その認識で良い。」
 吐き出される清涼感ある香りが漂う。唐突な問いであったが、すんなりと応えられた事に安堵する。身に覚えのある分野である為、何となくそうなのでは無いかと普段から思っていた事であった。
「父もその類に長けていてナ。僕ァ、母と父の其々の力を得ている。」
 急に怪談おかるとめいた話になってしまった。実際に私自身も体験し、かつ私の出自もそういった方面であるので疑う余地は無いのだが。紙面には載せられない話ではあるが、メモを取る。
「父は、人目を憚って山奥に居を構えていた。母はそこへ嫁入りした。最初から最後まで、たった一人でナ。」
 たった一人。その言葉が引っかかった。山奥に?嫁入りであればそうなのかもしれないが……。
「もうけた子供は僕だけ。ただ僕ァ、前にも話したと思うが、身体が弱く医者の手が必要だった。なので、夢玉堂に……祖父の家に預けられた。」
 嘘では無いと分かる。だが、真実と呼ぶには遠すぎる。そんな印象であった。一先ずノートに書き留めるが、触れてはならぬものに近づいていく気配がする。
「陸に到着したら、先ずは両親の墓参りだナ。道中で詳しい事は話そう。」
 その言葉に、彼の両親は既に他界していることを知る。祖父母もおらず、両親も居ないとなると、この人は孤独であると言うことになる。
「お母様は、どんな人だったのですか。」
「美しいヒトだった。」
 即答に近しく、そして母親を形容するには妙な言葉選びであった。
「慣れぬ土地、慣れぬ家系にただ一人。……父は、言うなれば周囲のヒトから恐れられていてな。……。」
 それ切り、名義人殿は押し黙ってしまう。薄荷のパイプを口許へ押し当て、近くの物へ焦点を当ててはいるが、遠い日を見つめている。
「名義人殿……?」
 躊躇いがちに呼べば、フッと眼の光が灯る。吸い過ぎた薄荷はとっくに尽きていた。
「……イヤ、何。そろそろ腹が減ったナ。続きは夕食を挟んでからにしよう。」
 何時もの軽妙さは無かった。ツカツカと歩みを進めていく彼の後を慌てて追う。
 あの途方に暮れた迷子の如き表情は見覚えがある。私が初めて夢玉を埋め込まれ、過去を暴かれた時と同じだ。
 私は真逆、彼を傷付ける事をしているのだろうか。
 厚い雲に覆われた海原では、夕焼けすら見えなかった。
 
 ◆
 
 名義人殿の血縁者は居ない。
 名義人殿は船の行き先からして九州の出身である。
 名義人殿は念力や神通力の類を持っている。
 名義人殿は……。
 メモを思い返し、私は複雑な気持ちになって居た。過去を知りたいと言ったのは紛れもなく私である。仕事の範疇とは言え、名義人殿について知っている事が増えるのは嬉しい。
 だが、私は彼の浮かない表情が見たかったわけでは無いのだ。今からでも引き返したほうが良いのであろうか。編集長には内容をでっち上げ、名義人殿ではなく《加賀アカリ》の人物像を作ればいいのではなかろうか。
 悶々とした気分に、私はひっそり頭を抱える。恐らく彼にとって、過去や自分の身元を明かす事は、私以上に重みのある事柄なのだ。
「客船と言えど、そこそこの味だったナ。」
「私にとっては向こう十年食せない 品々めにゅーでしたが……。」
「味だ、味。草夏クンの料理や、キミの持ってくる菓子の方が数倍美味い。」
 軽口を叩くが何処か浮かない顔である。私も存分に味わったとは言えなかった。
「サテ、続きを。」
 そう名義人殿が口にした所で、船が大きく揺れた。堪らず体勢を崩し転びかけたが、彼に首根っこを掴まれる。また蛙が潰れた声が出た。
「大丈夫か。」
「ええ、どうも……。」
 ビクともしない彼の体躯が羨ましい。締まった首を摩る。
 途端、悩んでいたのが莫迦らしく思えてきた。
 荒れ始めた天気の中、重苦しい話をしてはならない気がする。それに文字を書いたり読んだりすれば間違いなく酔うだろう。
「続きは、到着してからにしましょうか。」
 彼はキョトンとした表情になった。脈絡がない発言だったが、滅入った私の表情を見て察したらしい。
「折角の船旅ですし、揺れも強いですし、……。」
「勿論だとも。」
 目に見えてご機嫌になる彼に、私までホッとする。まだ時間はある。一週間のうち、余裕を見て明日まで移動にかかると踏んでいる。今日は初日なのだ。
 ……甘やかしている親の気持ちはこんな感じなのだろうか。アレコレと言い訳がましい事を一人並び立て、ひっそり苦笑いした。  

 部屋には酒棚が設けられて居た。名義人殿が琥珀火酒を見繕い、二つの杯に注ぐ。長羽織を預かり、収納棚くろーぜっとに吊るす。私の上着もその隣に並ぶばせた。幾らか身軽になった状態で、席に着く。
「……この色を見ると、酷い目に遭った日を思い出します。」
「花火の日か。」
 差し出されるまま舌を付ける。粘膜を焼くほど濃厚だ。其れでも次の一口が欲しくなる様な癖のある味わいだった。
「あの日を境に、キミは色々と素直になれたのだから良いじゃアないか。」
 温い酒をカラッと空ける名義人殿が恐ろしい。会話ついでに丸で湯水の様に飲み干すので、果たして本当に同じ飲み物なのかと疑いたくなる。
 試しに杯を態と間違えて飲んでみたが、当然の如く同じ味がした。彼は酒豪である、と頭のメモに書き加える。
 仕事のこと、生活のことが主な話題である。話は尽きないし、これからやりたい事を互いに語る。名義人殿は短編が溜まったので一冊にまとめたいらしい。私は私で、神社宛てに仕送を開始したいと考えている。
「中々受け取ろうとしないのです。生活が苦しいだろうからと言って。」
「随分と心配されているンだな。手紙は書いたのか。」
「先々週に。一人前には程遠いですが、名義人殿のおかげで順調です、と認めました。」
 二杯目目を空けた所で、限界を悟る。揺れもあるので、これ以上飲んでは悪酔いするだろう。呼気が熱い。そればかりか火酒の後味が息に混ざり、最早其れだけで酔いが回る。
「名義人殿は、何故、私を担当に指名したのですか。」
 ふわふわとする心地は口を滑らかにしてしまう。上手く滑舌出来ているか怪しいが、勢いに任せて尋ねた。
「何度も言っているが、木立クンを気に入ったからだ。」
「ですから、何故、気に入ったのかを聞きたいのです。」
 机に肘をついて頭を手で支える。ぐにゃりとする景色に、愈々酔いを自覚するが、微温湯ぬるまゆに使った時の様な感覚は悪く無い。名義人殿の蛇の眼も酒による熱を帯びている。
「神様に好かれやすい人間が居るのは知っているか。」
 名義人殿が立ち上がったかと思うと、座ったままの私の頬に触れた。
「かみさま……?」
 彼の掌が燃えるように熱い。酒で火照った身体でも尚、その熱さを感じ取れる程だ。以前、熱が入りやすい性質であると言っていたのを不意に思い出した。
「キミは一目見てそういう人間だと分かった。その上、魂はズタボロだった。」
 名義人殿の指が襟元に掛かる。襯衣の釦を弾けさせる様に外された。私はその言葉を聞きながら、指の動きを目で追うことしか出来ない。彼は何故、私の釦を外しているのだろう。
「にも関わらず、キミは健気にも生きて、真っ当な人間になろうと努めて居た。普通だったら世を儚んで自害しても、おかしくない状態だった。」
 三つ、四つと外された所で名義人殿と目が合う。言われた内容が頭に入ってこない。聞いておいて何だが、彼の声が上手く聞き取れない感覚になる。
「僕ァ、ヒトらしくあろうとする姿が好きでネ。」
「っ、……!」
 ベロリと首筋を舐め上げられる。蛇が長い舌で獲物を味見する仕草だった。ヒクリと喉が動くが、声が出ない。
「其れと同時に、キミを救えるのは僕しか居ないと確信した。」
「ぁ、待って、っ……!」
 耳を食み、態と水音を立てて舐られ、私は椅子に縛り付けられた様に動けなくなる。身を竦め、彼の身体をおし返そうとしたが体格差もあり敵わない。
「木立クン。」
 その声に、身体が抵抗を止める。見下ろされた視線と眼光に息が上がっていく。声にならない声が荒い息と共に漏れてしまう。
 長い指が私の唇に触れる。かと思えば強引にこじ開け、口を引っ掻き回し始めた。舌を押し、頬壁を撫で、上顎のざらつきを擦っていく。
「ぅあ……!? ん、んぁ、ぁ、っふ、ぁ……!?」
 何をされているかよく分からなくなってくる。夢霊が入ってきているわけでは無い。口付けにより増幅されているわけでも無い。だと言うのに身体が跳ねるばかりか肚の奥で熱が疼きはじめた。
「ぁ、何で……!」
 溢れた涎はアルコールの匂いを纏う。彼の指に絡み、零れ、衣服を汚していく。照ら照らと光る糸が私の口と名義人殿を繋いだ。
 何を思ったのか彼はその指を、れろ、と舐め上げる。煽情的な光景にぞくりと甘い波が身体中を走った。
「ぇ、んぁ、何、ぁうっ……!」
 舌を掴まれ、引き出される。名義人殿の舌先が、私の舌中を撫で上げた。角度を変えながら、波打つ様に蠢く。焼き切れる刺激に、息の仕方を忘れる。
「あぇ、え、いぎに、……!」
「すっかり身体が覚えたナァ。」
 最早言葉として成り立つ声が発せられない。愉悦に歪む彼の瞳が、更に熱を焚べる。
「誘ったのはキミなのだから。」
 愉しみ給え。
 低く甘く響く声に眩暈がする。酒による弛緩と船の揺れに自らの身体の在り方さえ朧げになっていく。
  名義人殿に縋るしかなく、私は仰け反ったまま喰らい尽くされた。
  
 ◆
 
 温かい暗闇の中にいた。微かに狼の遠吠えがしたが、外から聞こえる海の風の音であると気付く。天候は荒れ気味の様だ。正体が分かっていても、不安になる音であった。
「木立クン。」
 呼び掛けに意識が浮上する。背後から抱き留められているのか身動ぎが出来ず、声も直ぐには出なかった。
 揺れが大きいのが分かる。だが酔うほどでは無い。巨大な揺りかごの中にいるかの様だった。
 一糸纏わぬ姿で、名義人殿に抱えられている状況であったが、彼の体温が心地良い。微睡みから覚めることは出来ず、この瞬間の自分は揺蕩う睡蓮であるとさえ思えた。
「寝ているか?」
 起きてます、と言おうとして、違和感に気が付く。彼もまた衣服を着ていないのはこの際、問題では無い(普段であれば飛び上がる所であるが)。 うなじに鼻を埋め、いだき締めてくる。幼子が不安に駆られ毛布を抱え込む様な気配であった。
 呼吸が浅い。声を押し殺している為だと気付いたのは暫くしてからだった。
「総てを知っても、離れないでくれ。」
 益々強くなる力に息が引き攣る。肩に名義人殿の爪が食い込み、鋭い痛みが走った。呻いた事で、彼はハッとして腕の力を緩める。
「……起こしたか。」
 返事の代わりに寝返りを打つ。腕を広げ、名義人殿を抱き寄せた。何時もとは逆だ。
「変な事、言いますね。」
 寝惚けた声音となってしまったが、その言葉に名義人殿は固まった。彼にとっての独白を、 しっかり聞き取っていたのだから。
「起きていたなら、応え給え……。」
「ふふっ、一本取りました。」
 彼が自分の腕の中に収まる事など、普段ではあり得ない事だ。広々としたベッドに感謝する。
 愚図る様に涙を落とす名義人殿が、堪らず愛おしい存在に思えて、髪を梳かし額に口付けを落とした。
「何故、私の総てを知っても、離れなかったのですか?」
 言い淀む名義人殿を抱擁する。この人は、正面切って愛を囁くことなど出来ないだろう。
 散々、この人に愛されている。心が満ちる幸福を教えて貰っている。
 そして私も、その幾許かだけでも返したい。与えたいとさえ思っている。
「私が居ます。だから、大丈夫です。」
「木立クンの癖に、生意気な。」
 ぐりぐりと胸へ頭を押し付けるので、その仕草に可笑しくなる。このヒトは素直では無いが、それ以上に不器用が故に、分かりやすい人なのだと改めて知る。
 彼にとっての過去や、彼自身について明かす事は、二人の間柄を無かったことにする程の何かがあるというのだろうか。不安を打ち消す事は出来ずとも、先ずは受け容れる準備なら出来る。
 二人の体温が合わさり、私は再び睡蓮と化す。
 
 不穏に揺れる波間を、夜ごと越えていく。