夢玉堂の二階には:柒

 到着は午後三時を過ぎた頃であった。雨は止んでいたが、風が強い。九州は何となく暖かい印象があったが全くそうではなかった。寧ろ東京近辺より冷える。
 温泉の名所らしく、観光客が多く行き来していた。
「豊後付近ですか?」
「此処から更に南下する。今日も殆ど移動で終わるだろうナ。」
 バス停を目指しながら街を征く。温泉街の匂い。彼方此方で立ち込める湯気と土産屋。活気ある街は緩やかな祭りを執り行っている様に見える。
「バスがもう無い。ここらで一泊だ。」
 こんな時間から宿が取れるのかと血の気が引く思いがする。そんな思いを知ってか、名義人殿はニヤリと笑う。
「アテはある。」
 そう言うと一圓タキシーを呼び止め、さっさと乗り込む名義人殿に、私は慌てて荷物を担いだ。

 奥まった所に、その建物あった。真新しいビルである。二階建てで大きな窓が特徴的であり、温泉街の家屋とは違い近代的であった。何かの商店に思えたが、看板らしきものはない。
 此処は? と尋ねれば「キミも知っている筈だ」と言い、躊躇いもなくドアを開ける。
 玄関に置かれた来客用の鐘を鳴らすと、間も無く奥の方から足音が聞こえて来た。
「はい、どちら様で……!?」
「じょ、助手殿!?」
 以前会った事のある人物であった。白衣をはためかせる彼は、透明な団栗を持ち込んだあの助手殿だ。此処は不思議な研究をしていると言っていたあの研究所であると知る。
 彼もあんぐりと口を開け、驚いた様子であった。
「ついさっき、この辺りに到着してナ。宿も無いンで世話になりたい。彼奴は?」
 アテがあるとはそういう事だったのか。名義人殿の余りにも勝手な進め方に目眩がする思いだった。手土産も無しに押しかけてしまい、申し訳なさが募る。
「そういう事ですか。所長は事務室です。呼んで参ります。」
 放たれた言葉を一つ一つ咀嚼する様に瞬きをし、適応する辺り、助手殿の柔軟さには恐れ入る。

 応接間に通された私は、ソワソワとして落ち着かなかった。海外製の調度品は都会的であり、白っぽい明かりが部屋を照らして眩しいくらいだ。
「やあ、待たせたな!」
 所長殿はシミひとつない白衣に、ボサボサ髪で現れた。何となく、普段の名義人殿の姿に通ずるところを感じる。
「珍しいナ。地下ではなく事務室に居ると聞いたが。」
「つまらん学会の為に研究結果を纏めて居る所でね。面倒な上に彼が見張って居るものだから……。」
 ぶちぶちと文句を言う所長殿から視線を助手殿に移すと、彼は苦笑いをする。
「目を離したら直ぐにサボるからいけないのです。」
 手際良く茶を並べながら笑う彼もまた苦労人なのだろう。
「で、加賀は? 真逆、帰省ではないだろう。」
「イヤ、まァ、仕事だ。」
 歯切れの悪い名義人殿に変わり、そろっと手を挙げる。
「お上からのお達しで、名義人殿の系譜を調べて来いと……。」
「ははぁ、成る程。木立君には、ある程度本当の事を伝えておいて、適当に編集させると。」
「そういう事だ。」
 全く気は進まないがナ、と早速薄荷をふかし始める。独特の香りが彼のピリッとした 空気感おーらを一層強くしたが、所長殿にとっては些細な問題らしかった。年貢の納め時とも言えるな! とケラケラ笑い、長い脚を組み直した。
「何のもてなしも出来んが、適当に寛いでくれ。何なら森を見ていくか?」
「それは夜に頼む。今なら交響が盛んだろう。」
「そうとも! 水幻と光限の収束点に花実が咲いてな!」
「ホウ、言葉の通りだな。」
 彼等は次第に、私と助手殿を其方退けで話し込み始める。会話の内容と言い回しが難解で、素人の私には洒白さっぱり分からない。
 助手殿を見ると、微笑ましそうに二人を眺めていた。好青年な彼と、ぱちんと目が合う。
「お代わり、要りますか。」
「嗚呼、では、お言葉に甘えて……。」
 二杯目を頂いて、ほっと息を吐く。助手殿と笑顔を交わすと、寒さで冷えた身体がぽかぽかと温まった。
 物腰の柔らかい表情や仕草に、初めて会った時の姿を思い出した。
「夢玉堂へ納品しに来た時、荷物をずっと抱えていらしたのですよね?」
「ええ、そうですが……。」
 ここから港まで。港から船へ。船旅を経てタキシーやバスを乗り継ぎ、夢玉堂へ……。
 その旅道を実感した私は、今更になって助手殿の苦労を知る。只でさえ遠路であるのに、マトリョシカの様な梱包をし、その重量たるやと想像した。
「改めて、助手殿の大変さを知りました……。」
 私の言葉に何かピンと来たのか、彼は柔和な笑顔を浮かべた。
「此処までも遠かったでしょう。ゆっくりしていってください。」
 助手殿はテキパキと部屋の案内や間取りの説明をしてくれた。夕飯は彼等と共に取ると決め、彼の提案もあって、少し早いが温泉に浸かるとした。

 観光名所からやや外れた区画だったが、十分に物珍しさに溢れている。中心部に比べて人通りは少ないものの、土産屋や食事処は盛んであった。その様子を細かにメモを取りつつ、私は名義人殿の話に耳を傾けた。
「僕が此処らに居た期間はとても短い。」
 土産屋は華やかな並びだった。鮮やかな着色が目を惹く木屑人形、ハードセルロイド製の黒猫、プレスガラスの御猪口。最も目立つのは豪華な飾り付けが成された万華鏡であった。小ぶりではあったが、千代紙に金箔を押した筒が綺羅と光る。
「五つになる頃には東京へ預けられ、年に数回、帰ってくる程度だった。お陰でそこそこの土地勘はある。」
 冷やかしに彼は、その店に入りグルリと辺りを見回す。入って直ぐ、目に入る棚に文化人形が澄ました顔でポーズを取っていた。
「だが、長い事来ていなかったモンでね。町は様変わりしているし、懐かしさと目新しさが半々といったところだ。」
 郷土人形の数々は、細やかであった。親指ほどの大きさだが、其々が違う色や形をしている。
 名義人殿も、こういった玩具を与えられた時期があったのだろうか。
 ふと、この帰省話を持ちかけた時に、『実家にまで来るのなら……』と何か言いかけていた事を思い出す。
 その事を尋ねたが、名義人殿の眉が下がり、口はへの字になった。よっぽど嫌らしい。
「キミ、そんなに身内と会いたいか。」
「いえ、急な話ですから、無理には……。」
 黒炭を粉々にしたものを周辺に巻くような空気を放ったので、私は慌てて否定した。余程、複雑な事情があると察知し、店を後にする名義人殿を追う。
「ま、ひとっ風呂浴びようじゃアないか。」
 船の時と同じく、尻を掴まれた。往来のど真ん中であったが、思わず短い悲鳴を上げる。
「助平親父ではないのですから!」
「存外、収まりが良いもので、ツイ。」
 舌を出して心底可笑しそうにする彼に、強く出られない私も私だ。コロコロと変わる機嫌に振り回されるのも久しぶりな気がする。

 蛇が蛙を咥えて泳ぐように闊歩する姿を思い浮かべ、私はかぶりを振った。

 ◆

 幻想的な森は青暗い夜に包まれていた。凍てつくような寒さはない。涼しく澄んだ空気が、穏やかに流れる。
 確かに私は、階下へ来たはずだ。
「珍しいかえ?」
 所長殿にそう尋ねられ、とても、と一つ呟いて私は呆け面で夜空を見上げる。
「空があって月があるのは聞いていました。実際目の当たりにすると、とても不思議です。」
 其処には知っている星座が一つもなかった。私は月明かりを辿り、団栗を拾い上げる。金属粉を塗した様に煌めいている。布袋の中は、鱗粉が舞うが如く光の粒で明るくなっていた。
 あまりに急な往訪だった為、せめて手伝いをさせて欲しいと申し出たのが一時間ほど前。所長殿は表情を輝かせて、腕を掴んだかと思えば、早足で私を連れ去ってしまった。
 置き去りにしてしまった助手殿を少し心配する。助手殿は恐らく、名義人殿が苦手だったはずだ。もしかしたら、彼等は彼等で、この森の何処かを散策しているかもしれない。
「あの、所長殿。幾つかお聞きしても良いでしょうか。」
「勿論。何でも聞き給え。」
「この団栗も、硝子質になるのですか。」
 所長殿は小さく呻きながら、彼は腕や背を伸ばす。白衣の袖や裾が泥で汚れていた。その泥も、細かな砂の結晶を含んでいるためか、星の瞬きを宿していた。
「そういえば試した事がないな。此れは其の儘使うんだ。とある交通手形の代わりとしてね。」
「手形?」
 掌の上でコロコロと転がす。小さな光の粒を捏ねた様にも見える団栗は、寒天色の笠を被っている物もある。
「この先、ずーっと向こうに建物があるんだ。外部の人間はこの団栗から作ったブローチが無いと入れない。」
「そのブローチも所長殿がお作りになるのですか。」
「まぁな! ボクは手先が器用だから。」
 得意満面な笑みで腕を組み仰け反る姿勢に、私は噴き出してしまった。
「だが、いちいち装飾品の類にする理由が分からん。全く、協会は面倒な事を……。」
 所長殿は不満を零しながら、布袋の重さを測る。「こんな物だろう」と言うと、私を手招きした。
 所長殿の後を追うと、簡素な木机と長椅子べんちがあった。机の上には見た事もない道具が箱詰めされている。
 促されて彼の隣に着席すると、彼は黄色の布で団栗をくるむ。丁寧な手つきで磨くと、一層細かな輝きを放った。それに倣って私も作業に取り掛かる。やり方や、この団栗の性質について彼是質問し、気が付けば夢中になっていた。
「嗚呼、泥が付いているな。こっちを向いてくれ。」
 頬骨の辺りを擦られる。所長殿の顔を間近で見たのは初めてだった。
 瞳孔が開き気味なのは相変わらずだ。だが、スッと通った鼻筋や、シミひとつ無い素肌の持ち主である。凛々しい眉は利発そうな印象を与え、判霧はっきり言って見目が良い。背も名義人殿と同じ位であり、スラリとしている。同性の私でも、至近距離で触れられてドギマギとした。
 照れ臭くなって視線が泳ぐ。
「名義人殿とは、お付き合いは長いのですか。」
 沈黙が気まずくなると踏んで、勢いに任せて名義人殿を話題に出す。実際、聞いてみたかったのだ。名義人殿を知る旧友であれば、新たに知る事があるかもしれない。
「加賀とは腐れ縁でな。実はボクのほうが年下だ。」
 意外な事実を聞かされた。寧ろ所長殿のほうが年上にも見えるというのに。名義人殿が彼の事を、さん付けで呼んでいたのもあって驚きを隠せなかった。
 顔の汚れを拭った指が、くるくると宙を描く。
「彼奴もボクも、頭の出来が良く、序でに言うと世間様から浮いていた。」
 自身を頭が良いという辺りが、所長殿らしい。事実であるし、誰も否定出来ることでは無いだろう。
「祭りに共連れする友人も居ない。一人でほっつき歩いてた子供同士が偶々出会って、意気投合した。運命的だろう?」
 彼等はどんな幼少期を送っていたのだろうか。思考の程度れべるが合わねば会話が成立しないというのは聞いた事がある。彼等は竹馬の友といえる仲で、信頼し合っているのは、私から見ても分かった。
「《加賀アカリ》の由来について、何かご存知ですか。」
「あれはチョイとした言葉遊びさ。」
 言葉遊び。そう私が鸚鵡返しすると、彼はクスクスと笑う。
「木立君。君、加賀が好きだろう?」
 思わぬ台詞に、顔から火が出る。否定も肯定も出来ず、赤面して下を向く事しか出来なかった。
「……ボクから言える事はここまで。後は本人から聞きなさい。」
 肩を優しく叩かれる。煌びやかな団栗達が内緒話をする様な、穏やかな風が吹いた。

 ◆

 朝一のバスに乗り込んだ我々を待っていたのは、経験した事の無い悪路であった。ガタガタと揺れ、乗り心地は最悪である。すわ車酔いにて嘔吐か、と言うところで終点に到着した。
「更に歩くが、少し休むか?」
「いえ……、そのうち治ります……。」
 降車して暫く、地に足が着かぬ心地がしたが、逸る気持ちが抑えられない。時刻は朝八時過ぎ。辺りを見回すと人家も疎らな所であった。帰りのバスは十三時が最終であると確認する。
「墓参り、と仰っていましたよね。」
「まァ、そうだな。」
 名義人殿は巾着一つ持っていなかった。荷物の殆どを所長殿らの研究所へ預けており、私も肩掛け鞄のみという身軽さだ。
「花や御供えを用意していませんが、……。」
 言い淀む私に、名義人殿は何か言いあぐねる様な声をあげた。
「正確に言えば、墓は無い。」
 行けば分かる、とだけ短く告げられる。
 愈々不思議に思うが、此処まで来たら後は付いていくしかない。

 更に深い山路を征く。土を平らにしただけで、舗装などはされていない。進む程に険しくなり、何かの修行とさえ思う。名義人殿の父親は人目を憚って生活していたと言っていたから覚悟はしていたが、想像以上であった。
 人里を離れてから周りにあるのは、申し訳程度に抜草された脇道、雑木の森、遠くから聞こえる川のせせらぎ位である。
 メモを取る余裕はなく、名義人殿の背中を追うのに精一杯であった。
「到着だ。木立クン。」
 その声に顔を上げる。其処には古びた神社があった。
 周囲の閑散具合とは釣り合わぬ程、聳え立つ鳥居に足の裏がぞわりとする。敷地は広く、手入れは為されていた。神社の名称を探したが、見つけられない。
 言い知れぬ不安は、畏れか、将又別の恐れか。
「ウム。昔のままだ。」
 懐かしげに、そして何処か愛おしげに見上げる。彼にとって此処が縁ある場所なのは間違いない。

「此処に、僕の両親が祀られている。」

 俄かには信じ難い台詞であった。だがあり得ぬ話では無い。偉人を神として祀ることは、ままある事だ。
 墓が無い、と言ったのは祀られているからなのか。いいや、ヒトであれば墓は別に設けられるはずだ。では此処の神社に墓が? 神仏集合に因るものだろうか。
 様々な疑問が頭の中に吹き荒れたが、疲労で一つも言葉に出来ない。名義人殿を見上げると、彼の雰囲気が何時もと何処か違っていた。
「手を。連れていかれては堪らんからナ。」
 何に、とは聞けなかった。
 昨夜、彼が言っていた言葉を思い出す。私の事を、《神に好かれ易い人間》と言っていた。
 大きな掌は相変わらず熱に満ちている。寒空の下で冷えた私の手とは大違いだ。
 鳥居を潜ると空気が変わった。微かな耳鳴りに身体が強張る。名義人殿の手を握り直すと、彼は小さく笑う。
 縁日などの、浮き足立った夜に似ている。
 彼は堂々と石畳の真ん中を行く。大人が十人並んでもまだ余りそうな道幅であり、私も必然的にその位置を歩く事になる。端を歩かねばと思うが、彼の手を離せない。
「息苦しさや、体調に変化は?」
「有りませんが、その……、……。」
 視線が。そう言いかけて止めた。聞き取れぬ囁きの数々も、物珍しそうに刺さる視線も、身に覚えがある。
見世物として手品いんちきを披露した日々。『もしかしたら』という期待と『そんな訳がない』という猜疑の相半ばで作られた、当時の舞台すてーじへ続く悪の花道に似ていた。
「大丈夫だ。僕がいるからナ。」
 脂汗が噴き出る私に、名義人殿は涼しげに笑う。
 その笑みは体温に似合わず冷徹さに満ちている。
「名義人殿……。貴方は、一体。」
 蛇の目が血の色に輝く。
 刹那、黒塗りの夜が分断と共に瞬いた。
 減衰、変容、 神命じんめい漠寂ばくせき
 くらむ水底、明けの彼方、宵の焦土、昇送しょうそう掌結しょうけつ
 明けぬ欲、焼ける喉、呑み下す極彩色、指先までの鱗、煎じた薬草、閉じた蔵、塵を灼く息、離れまでの廊下、古書の山、瓶詰めの棚、肚の奥、焦げる夢霊。

 焼き尽くす、燃え盛る、炎、焔、焰、焱……。

 声が上げられない。雪崩れ込む切れ端だけのフィルムが脳裏に焼き付く。膨大な情景と感覚に全身が粟立つ。音はなく、名義人殿の手だけが現実への命綱だ。
 遂には痛みを伴い始め、私は更に混乱に陥っていた。
 息が熱い。腹が、胃が、食道が、喉が燃えていく。
 熱い、熱い、熱い!
 水を、いや氷を!
 助けて、苦しい、楽になりたい、誰か、誰か!
 フィルムはやがて真っ白になり、上下左右の感覚を失う。名義人殿の手に縋り、歯をくいしばる。
「——ァ、アアぁあッ!」
 漸く発せられたのは丸で人ではない声であった。それと同時に怒涛の感覚衝撃ふらっしゅばっくは治った。
「見たか。」
 彼の声だと分かるまでに数秒を要した。私は小さく頷く事しか出来なかった。
 草夏殿の時にも見た、あの感覚だ。あの時見たものも、今見たものも、私の勘違いでなければ……。
「それは、僕や此処の土地に刻まれたものだ。」
 力無く膝を折る。震えが止まらない。呼吸が燃えていない事を恐る恐る確認しながら、浅い息を繰り返した。両手で喉を摩る。酷く喉が渇いていた。
「久々の客で、然もキミが余りにも美味しそうなモンだから、皆々どもはしゃいで居る様だ。」
 皆、とは誰なのか。否、何なのか。
「貴方は……、いえ、貴方がたは……。」
 丸で人外だナ。未だ揺れる脳味噌がいつぞや名義人殿が言った言葉を再生した。その他、今までの生活の中で発せられた声が響く。それは一本の糸を り、私に確信を齎した。
「僕も、草夏クンも、……。普通の人間とは言えん。」
 水を打ったように静かであった。
 我に返り果てまで散った感覚を掻き集めると、目の前が畳の目が区切くっきり認識できた。へたり込んだ姿勢から顔をあげる。靴を脱ぐ暇など無かった筈だ。それを契機きっかけに意識のピントが不意に合う。
 今度は、夕陽が差し込む二十畳以上はありそうな広間に突っ立って居た。私の時計は午前九時半を指している。時間の辻褄が合わない。
 広間には私達以外に誰もおらず、長年放置されていそうな土地にあるとは到底思えぬほど美しかった。人理を超えた何かが働いていると直感が囁く。
「安心し給え。此処は僕らだけが出入り出来る結界みたいなモンだ。キミが落ち着くまで休むといい。」
 現実味のない台詞を、何でもない様にさらりと言う。何時もの飄々とした雰囲気は其の儘だったが、射抜かれただけで炭と化しそうな、鋭い眼光が冴え冴えしい。
「貴方は、……!」
 口を手で覆われる。血の色に光っていた眼は一層鮮やかになっていく。
「僕から言わせてくれ。」
 彼の掌が熱い。炎を直に灯した様な、熱を帯びている。瞳の翳りとは相反する温度に私は背筋を伸ばした。

 ◆

 此処ら一帯は、元はとある神を先祖とする一族が暮らして居たンだ。その神は火を司り、豊穣と災厄を与えるとされた。
 最も古い文献に寄れば、此処らは日ノ本とは異なる國を持っていたとされている。独特の文字を持ち、言語を持ち、思想を持っていた。
 軈て彼等は、集落中の人間を一つにまとめ、神のくらいに還る目論見を立てた。そしてそれは、何とか実現させられた。
 神の位に還ることは出来たが、それは神通力を持っていた人間の撚り合わせである。多大な犠牲をもって儀式を執り行ったが、元の姿とは程遠い、蛇の様な象形となった。
 故に、此処は蛇神を祀っているとしているンだ。
 僕が使える力の一部は、その残滓だ。独自が故に扱いが難しい。油断すると、瞳が血や炎の色になってしまう。
 今はもう一方の力で、それを抑えているンだ。

 母の血族の話をしよう。御先祖は夢霊を扱う……、イイヤ、操る家系だった。ヒトの命運を占い、助言をし、癒しを与える事を生業として居た。
 多くの信奉者を抱え、発展したが、直系は死に絶えた。今言った蛇神と争いを起こしたからだ。
 蛇神は贄を欲した。正確に言えば清廉で生命力ある魂を、だ。
 蛇神は、さっき言った通り元人間らだ。神に還る事はできたが、魂を得続けなければ保てない。信仰で賄っているが、足りないンだ。
 魂に関する仕組みは各所で様々唱えられているが、……まァ、今はその話は省こう。何にせよ血族は魂を丸ごと渡すのを良しとしなかった。
 贄になる様な魂は稀有なンだ。
 喰われた贄は糧になるが、消費される。消費されたら、待つのは消失だ。
 人の身に再び宿る事はない。そうなれば夢霊もいつかは集められなくなってしまう。夢霊は、満足の入った魂の欠片みたいなものだからナ。清廉な魂が夢霊の元になる事も少なくない。
 血族は、保管していた夢霊で代替する事を提案した。だが、……端的に言えば決裂した。夢霊は魂を修復し、心の聲を補えるが、魂とは全く似て非なる物だ。神にとっては紛い物に過ぎない。水で薄め過ぎた酒が不味く感じる様に、夢霊程度では満足出来なかったンだ。

 其処からは長い間、戦いを続けた。

 泥仕合とも言える争いで両者とも疲弊していた。血族は十余人を残すのみとなり、神もまた、自身を保てずたった一体のヒトの身に姿を戻しつつあった。
 争う力を持てなくなった神は、夢霊で代替する事を飲んだ。争いは終わり、晴れて魂の安全が保てると血族は安堵した。
 だが、神が神として存続する為には、多量の夢霊を必要とする。供給する為に太いパイプが必要であり、誰かが側に居なければならない。
 そんな状況の中、最後に、序でに和平を結ぶ為に何をしたと思う。

 当時、年頃だった娘を、神へ嫁入りさせたンだ。
 良くあるだろう。終戦させた後、敵同士の血筋が結婚するという和平が。
 そうして争いは終わった。血族の面子は保たれた。神も存続する事が出来た。
 然し、彼女は血族から遠ざけられた。神との子を宿し、産んだ後も、最期まで一人だった。
 神とまぐわった事で、彼女は人間たはかけ離れた見目になった。鱗が肌に浮き、舌が長くなり、瞳は赤くなった。
 だが、彼女はそんなになっても、ヒトであろうとした。子も、ヒトとして育てようとした。
 ……神の血が強く、子は上手く育たなかった。何とかして生かす為に……治癒と安定を目的として、父を頼って子を夢玉堂へ預ける事となったが、彼女は確かに、最期までヒトであったのだ。

 分かるか? そのヒトと蛇神から、僕は生まれた。

 ヒトでも無く、神でもない。
 半神なンだ。僕ァ。

 ◆

 雨が降り出していた。結界内だと言っていたので、天候の変化があると思っていなかった。彼の心情に連動しているのかもしれない。
「僕があの店の店主ではなく、名義人として振舞うのも、そういう背景があっての事だ。僕ァ血族から疎遠にされた女から這い出た異物なのサ。」
 あの店は、僕の物にはならない。薄荷無しに、彼は言葉を淡々と語る。
 彼の話は御伽噺ではないと理解出来る。そして納得もする。
 彼が《加賀アカリ》よりも、《名義人殿》と呼ばれる事を好んだのは、そこに偽りがないからだ。
 神は実直を好む。《加賀アカリ》はあくまで作家としての名であり姿だ。彼自身を表す物では無い。
「察してるかもしれんが、草夏クンは元は黒猫だ。キミは感覚が鋭い。研ぎ澄まされれば、そういう類も見えよう。」
 黒猫。合点がいった。美しい黒髪、金の瞳、鈴が鳴る装飾品。艶やかでありながら、可憐な少女の様に妙な魅力はヒトではない由来だったのだ。
「私が見たものは、お二人の記憶や体験を追ったものだったのですね。」
「そうだ。」
「……もう、痛くは無いですか。」
 そっと彼の頬に触れる。肺が燃え、息が体内を焼く感覚を思い返して身震いしそうになる。
「もう慣れたさ。だがまァ、正直言って夏は好きではない。氷水に浸かって、やっと動ける様になる位だからナ。」
 番傘を突き刺して日射の中で溶けていた彼の姿を思い出した。あの時は、やり過ぎではないかと苦笑したが、彼にとっては死活問題だったのだ。よく知らぬまま可笑しく思った事を恥じた。
「悲惨な子供時代だった。だがな、僕ァ結構、それを含めて楽しく生活を送れていると思っている。」
 私の気持ちを知ってか、名義人殿は微笑んで私の頬を撫ぜる。
「草夏クンの飯は良い。ある種の信仰が含まれている。キミが寄越してくれる菓子も、キミが僕の事を想って取り寄せだものばかりだろう。だから君達との飯は美味い。」
 買ってくる物。それから共に食べる物。確かに、そして当然に名義人殿の事を考えている。彼は正確には偏食家ではないと知る。大衆向けに作られた物より、個人に向けた物を好むだけなのだ。
 彼の瞳が少しずつ、焦げ茶色へ戻って行く。
「小説も良いモンだ。僕が好ましいと思う人生を擬似的に辿る事が出来る。手遊びみたいなものだが、熱を吐き出すには丁度いい。」
 洒脱な人柄はもしかしたら所長殿が素体(もでる)なのかもしれないと思っていた。彼が好ましいと思う人生は、きっと過去にも善いと感じたヒトから来るものなのだろう。……少し自惚れれば、この私を素体にした話を書いたのも。
「小説家として踏ん反り返ってみれば、何やら貧相ではあるが、美味そうで、危なっかしい奴と出会えたんだ。儲けモンさ。」
 くしゃくしゃと髪を混ぜられた。彼は目を細ませ、無邪気に笑う。心地良い手の感触と表情に、心が擽られた。名義人殿は私を抱き締め、私もまた彼に寄りかかった。
「最初、キミを整えたら良い糧になると思えた。」
 耳許で低く這う声にヒッ、と息を呑む。再び目が赤くなっており、私は身を竦ませる。
 蛇と蛙の関係に思えたのは、強ち間違いでは無かったのだ。
「だが、何だ。話を聞いたり、飯を食ったりしている内に情は移った。その上、喰らい尽くすには余りにも勿体無い。」
 雨の薫りは心地良い。そう囁いて額に口付けられる。触れる唇が普段よりも熱い。
 ……推測だが、彼の結界や、彼の縁ある土地に居る事もあって、神の側の性質が強く出て居るのかもしれない。
「木立クンは体温が低いだろう。抱き心地も良い。ヒトとして品格を保つ努力もする。実に好ましい。」
 体温が低い自覚はなかった。いや、名義人殿と比べたら確かに低いとは思うが。
 紅と焦げ茶のグラデーションを経て、瞳は穏やかになってゆく。私は吸い込まれる様にその様子を見つめた。
「僕ァ、キミを離してやるつもりはない。……その上で聞こう。」
 何時に無く、真剣な面差しだった。雨は止み、一縷の陽が差し込む。
「総てを知っても、離れないで居てくれるか。」
 神の性質を持ってすれば、私を無理矢理にでも繫ぎ止める事は容易だ。だが彼は、ヒトとしての理性で以ってして、私に問いかけている。
「私は、」
 胸が詰まる思いがした。耐えきれず、涙が溢れた。ヒトには収まらぬ力を御して、そう在れかしと律するのは尋常ではない心と想いがあるからだ。
 どうして私が彼を拒めよう。
「貴方でなければ、自らを遠ざけた儘でした。」
 もし、彼ではないヒトの担当だったならば。
 私を私足らしめる部分について忘却の彼方に置き去りにしていた事だろう。空洞の眼窩は虚ろな儘に、篠を放ったらかしにする所だった。
 もし、彼から夢霊を与えられなければ。
 私の心の奥底は千切れた儘で、満たされた想いを知らずに暮らしていただろう。無ければ無い、知らねば知らぬで生きる事は出来る。だが得た今のほうがより良いと胸を張って言える。
 其れ程までに、今の私は満たされている。

 彼に、私は何を与えられるだろうか。
 愛し合う他、何か、……。

「私を、食べたいですか。」
 口から零れた言葉に、名義人殿は目を見開いた。
 自己犠牲などではない。単に私は持ち物が少なく、彼へ渡せるこれ以上の物が無い。私を丸ごと渡せば、彼の炎が少しは鎮まり、健やかになるのではない。
「……意味が分かって言っているのか。」
「貴方に愛して欲しいと言ったのは、私です。」
 私は彼の熱に浮かされているのかもしれない。浅はかな物言いにも聞こえるかもしれない。だからこそ嘘や偽りは無い。
 名義人殿は深い溜息を吐き、頬を紅に染めた。生殺しにするつもりか、と小突かれる。
「僕ァ、ヒトだ。ヒトであろうとしてるンだ。そんな美味そうな物を目の前に吊り下げて、僕を神なる方へ誘惑まどわすな。」
 再び溜息を吐いて私の薄い肩に鼻梁を埋めた。私は嬉しさと擽ったさから、彼に抱擁を返した。
 このヒトの側にいたい。共に暮らしたい。共に歩みたいた。だからこそ、このヒトの名を知りたい。
 湧き上がる想いは、名義人殿に筒抜けかもしれない。然しヒトならば。
「貴方の名は、何ですか。」
 相手に伝えるために、自らの姿と言葉で問い掛けるのがヒトだ。それこそが、魂に彩りを与えるものだ。
緒方おがた。」
 形のいい唇が音を紡ぐ。一音ずつが、心に降り注ぐ。
「緒方火嗣ほのつぐだ。……篠クン。」
 心が焦げる。肉体ごと発火してしまうとさえ思える。彼の身体越しに、脈打つ鼓動が耳に響いた。
「火嗣さん。」
 見上げる様な姿勢で彼の名を呼ぶと、心臓が早鐘を打った。蛇の眼が潤んでおり、私は其れが溢れぬように手を伸ばした。
 どちらからとも無く、口付けを交わす。触れ合うだけで、激しさは伴わない。何もかもが熱く、溶けてしまうとさえ思えた。
「篠クン。」
 互いを確かめる様な接吻が続いた。漸く、本当の意味で初めて触れられた心地がした。
 もっと近くに、もっと近くで……。欲するうちに素肌をまさぐり、次第に息が乱れていく。雪崩れる様に膝をついて、彼に強く抱き留められる。
 重なる唇から彼の呼吸を感じ、強い幸福感に満たされた。
「は、ぁっ、……火嗣さんっ……!」
「篠クン……。」
 覆い被さる彼の掌が、私の手首を床に縫い止めた。下がる髪の黒々しさが、彼の端整な顔つきを引き立てる。紅潮した頬や唇に、こいねがう気持ちが溢れてしまう。
「火嗣さん……。」
 愛して下さい。
 下腹が甘く疼いた。少しずつ愉悦に歪む彼を目の当たりにし、呼吸が浅くなっていく。
「はしたないなァ、篠クン。」
 ニヤリと覗く鋸の歯に、むず痒い様な羞恥と歓喜が湧いた。奥底でその二つが縺れ、やがて期待へと成っていく。
「ん、ぅ、……! ふぁ、ぁ、ぁああっ……!」
 噛みつくように口付けられ、息を吹き込まれた。途端に、ぞくりとした波に攫われる。彼の息が、身体中の隅々に染み渡った夢霊へ燃え移っていく様だった。
「ほの、つ、……! ん……っぅ、んん、ふ……っ!」
 口内が火嗣さんで一杯になる。長く熱い舌が、私の弱い所をなぞっていき、私を骨抜きしていく。
 知り尽くされた肉体は悦びに満ち、惜しみ無く愛撫を施された。
「愛してやるとも。僕の、篠クン。」
 言葉を載せる舌が赤い。熱によって炙り出された私の涙を啜り、首筋を這い、彼方此方を甘噛みしていく。
 彼の掌に腰を抱き寄せられ、深い接吻を繰り返した。
 息継ぎの合間に互いの名を呼び合う度、身も心も昂ぶっていく。
 胎内の熱と彼の熱が綯交ぜになり、私は仰け反った。首の皮に牙を立てられ、声の抑制が外れてしまう。
「あ、あぁっ、ぁ、火嗣さっ、ほ、のつぐさっ……!」
「……っ、篠クン……!」

 欲する儘、求める儘に、私達は——。



 顔は見せたからもう充分だ、と火嗣さんは言い、私は参拝する事なく神社を後にした。何だかんだでバスまでに時間の余裕がない。私は鳥居の外で一礼し、背を向けた。
 ふわふわとした足取りだったが、帰りの道の険しさは変わらない。下りが続くので行きよりは楽ではあったが、明日は間違いなく筋肉痛になるだろう。
 日が高くなり、疎らな民家から細い煙が上がっている。昼食の支度だろうか。
 微かに漂う火と炭の匂いが森林の緑と合わさり、豊かな香りとなって鼻を掠めた。
 火の気配と枯れ草の音が冬を呼び起こす。山の中に居ると、吐く息の白さを灯すのは、自然が持つ力であると思えてくる。
 早く火鉢に当たりたい、と炭の赤さを思い浮かべた。
「……——あっ。」
 私は唐突に、閃光の如く理解した。
 火嗣、ほのつぐ、ほのおつぎ、ほむらづき、ほむづき…………。
鬼灯ほおずき……!」
「気付いたか。」
 彼はあっさりと認めた。特定される事を厭がるかと思ったが、寧ろ何処か嬉しそうな声音であった。
 鬼灯は酸漿とも書き、酸漿はカガチとも読む。カガチは蛇を表す。目がギラギラと光る様も、まさしく 輝血かがちといえよう。
「鬼灯の灯からとって、《加賀アカリ》だったのですね。」
「そういう事だ。単純明快だろう。」
 言葉遊び。成る程、確かにそうだ。所長殿が本人に聞けと言ったのは、彼の名に関わる事だったからだ。
「それからナ。僕の事は、今まで通り名義人殿と呼び給え。」
「何故ですか。」
「暫くは夢玉堂に腰を据えるからだ。」
 暫くは、という言葉にチクリと心が痛む。
「僕ァ、ヒトらしくあろうとする存在が好きだ。草夏クンも、木立クンも。」
 凛とした彼女の姿に見惚れる人は少なくない。
 ヒトらしくとは其々に異なる価値観を含むが、食い違うことは無かった。より善い物に成るようにする為、日々を積み重ねるのは、心掛け無くして出来ぬ事だ。
「あの店は僕の物にはならんが、なるべく長く住む為に努力する事を誓う。だから、《名義人殿》と呼んでくれ。」
 彼なりのまじないの類なのだろう。名で存在を固定付け、役割を果たすための枠組みなのだ。
 私は一つ頷いて、名義人殿、と呼びかけた。ニンマリとした笑みを浮かべ、ヒラヒラと手を振る。
「編集は任せたからナ。木立クン。」
 編集。
 忘却の彼方にあったその二文字が頭にのし掛かる。
 このヒトについて知れた事は大変喜ばしい。然しこのヒトの一体何を綴って《加賀アカリ》とすべきなのか。
「一先ず所長サンの処へ戻って考え給え。」
 軽快な足取りで彼は進む。悪路を戻るバスの揺れを思い返し、二重の苦しみで眩暈がしそうだ。
 ざあっと冷たい風が吹く。ジャケットの襟を立て、首を竦めた。私にとって冷える北風も、名義人殿にとっては心を澄み渡らせる洗い立てた風なのかもしれない。
 頭上から注ぐ陽の光が木漏れ日を作り出す。風に揺れる影や曖昧な輪郭に、夢霊を連想した。

 夢玉堂には。
 蛇神と、黒猫と、美味そうと評される人間がいる。
 其々の生い立ちはバラバラだが、『ヒトとして生きる』ことを善しとしている。
 ヒトに憧れ、人並みを愛し、より善い明日を得る為に。
 夢玉堂の二階には。
 硝子瓶に詰められた不思議な物が集められている。欠けた魂の代わりに、心の聲を補える。其れを含めば、夢の続きや夢を得た後の心となり、充足を得る事が出来る。より善い人生の足掛かりとする為に。

 名義人殿の手を取り、並び歩く。温かな温度で、私はとろけてしまうかもしれない。
 どんなに険しく厳しい道程だとしても、私はこのヒトと共に進んでいく。

 より善い心で、在り続ける為に。