第三話

 翌日。泣き腫らしても太陽が昇ることを知る。
 昨日は色んなことがありすぎた。あの三人組が突っかかってきて、真角くんに告白されて……。ものすごく空虚な気分ではあるが、すっきりとしている。
 真角くん、何で俺を好きになったんだろう。大人っぽいお兄さんという<もえぎさん>は、昨日散々ベソかいたので消え失せたというのに。弱った生き物が可愛く思えてしまうのと同じだろうか。
 もやもやと考えたが答えは出なかった。予定通り今日も彼は来るので、タイミングを図って聞いてみよう。切り替えなければ。
 とにかく、先にやることを考えよう。教授と話してみよう。治すという気持ちを持とう。今日から半袖になろう。
 出陣するような気持ちで、玄関を開けた。

 授業を受けて、課題に勤しんで、教授を捕まえて、分かったことがある。
「怪我したくらいで、優しくなるわけないだろう」
 教授は優しくないが、会話を拒むことはしない。経緯を話して、教務課前の展示を決めた理由を知りたいと素直に聞きに行ったら、このセリフだ。
「ただ、俺の作品が不出来なのは……間違いないと思うんです」
「ああ、それだよ。そういうところ」
 白髪混じりでダンディでもあるが見た目と裏腹に人一倍厳しい、との評価だが、話しているとアレ? と思う。なんでも答えてくれるのだから。
「迷いなく芸術がやれているなんて思っている連中、摘んで捨てる程に見ているんだ」
「ええと……。迷う連中は、更に居るのでは?」
「居ないよ。面白いことにね。本気でアレはダメだった、と認められるニンゲンてのは案外少ないんだ」
 目から鱗が落ちた。アレはダメだったと思えたのは昨日の出来事があったからではなく、作りながらどうしようもなさを抱えていたのだ。それでも完了させねばならない事情があったからで。
「あれは君の迷いのピークだ。だからおもしろい。その先どう転ぶか。だから次も目一杯悩んで作れ。そうでしか答えは無い」
 ただし怪我は治すように。やはりそう念押しされて、背筋が伸びた。
 大廊下のステンドグラスを眺めながら、日の光を浴びる。暑くて息苦しいような気分にはならない。
 悩んでいいんだ。迷っても。
 そう思えたら腹の虫が鳴いた。
「食堂、行こうかな」
 考えてみれば、学校に入ってから昼飯を食べるのは初めてだった。いつもゼリーなんかを流し込むくらいで、飯を食う時間があるなら何か手を動かしていたかったから。手を怪我した後も、何かしら思い描いていたかったから。
 悩もう。悩むために、飯を食おう。
 ふと、真角くんが作ってくれたオニオン
スープを思い出した。今日も、真角くんに会えるんだ。

 ◆ ◆ ◆

「もえぎさん!」
 駅前での待ち合わせは初めてだった。普段は病院の近くか自宅に直接来るようにしていたからだ。
 手を振って駆け寄って来た真角くんは、制服姿だった。半袖シャツに校章の刺繍が襟に施してある。
「制服、初めて見た」
「すぐにでも会いたくて、来ちゃいました」
 照れくさいことを真っ直ぐにいうものだから、こちらが赤面しそうになる。
「グイグイくる……」
「もう隠さないで良いかなって思いまして」
 先輩として慕うと言っていたのに、ラブの感情を全面に押し出されるとやりづらいが、楽しそうにする真角くんが眩しくて、どうでも良くなってしまう。
「もえぎさん……色白いですね」
 考えてみれば日に当たるのを好まず、長袖でいたので、彼と比べたら生白い腕をしていた。むかしからそうなのだが、毛が薄くて男っぽくないのも気にしている。
「言われるまで気付かなかった」
 あんまり見ないで、と言うとパッと視線を逸らす。どこかニヤケているように見えたので、軽く肘で小突いた。
 着ている服が違うだけで新鮮だった。三歳差だと高校では世代が被らない。俺が着たらコスプレになってしまうが、学校帰りに遊びに行く先輩と後輩という場面を想像する。カラオケやCDショップに行ったり、ジャンクフード食べて駄弁ったり、テスト勉強とかしてみたり……。
「もえぎさん?」
 呼び掛けられて我に返る。スーパーで買い物している最中だった。気の抜けたBGMがくっきりと聞こえ始めて、俺は手に持ってたサラダチキンをカゴに入れた。
「あ……いや。年下なんだなぁって、しみじみしてた」
「何すか、それ」
 これまた、BGMに負けず劣らず気の抜けた笑顔だ。
「真角くんと学校生活送れたら、楽しかったかな」
 口に出してみたが、多分接点が無さすぎて関わりが無くなるような気がした。多分、今の距離感だからこその関係だろうと一人で納得する。
「もえぎさんの、制服姿……」
「なんかヤバそうな想像してないよな?」
 不穏に呟いてそれきり考え込んでしまったので思わず突っ込む。俺の知っている<真角くん>がどんどん変容していく気がしたが、ニンゲンはそういうものなのかも、と思うことにした。

 蒸し暑い外気に晒されながら帰宅して、五日分の作り置き用の食材を持ち帰る。アイスでも食べながら帰ろうかと思ったけれど、サポーターに垂れるかもと思ってやめた。セミが鳴いて、来週開催される夏祭りのポスターが民家の塀に貼られている。夏らしい夏が、目の前に迫ってきている。
「真角くんって夏休みいつから?」
「もうすぐですよ! 実は今日テスト期間が終わったんで、来週の真ん中からですね」
「え、そうだったの?」
 高2の夏のテストといえば大抵進路に関わる。そんな大切な時期だったにもかかわらず、真角くんと抱き合って、慰めてもらって、……。何か大変なことをしでかしてしまったんじゃないかと身震いする。
「オレ、頭の出来はあんまり……なんで」
 スポーツ推薦でも勉強はしておいて損はないぞと言おうとしたが、俺も対して出来がいい方ではないので生温く笑ってやった。休み中は部活も盛んになるだろうし、今ほど来れなくなるかもしれない。
「タイミング合ったら、花火でも観に行く?」
「え、行きます! 絶対行きます!」
 大袈裟なくらい喜ぶから、余計に可愛く思えてしまう。これだけ懐かれれば情くらい湧く。俺も真角くんも浮かれてるな、と思いながら無事帰路に着いた。

 真角くんはいつも、作り置きと一緒にその日の夕食を作ってくれる。俺は軽めの家事を片したり、ボタンを押せばできるような手伝いをしていた。その間に交わされる会話だとか、やりとりだとか、コミュニケーションが自分なりにスムーズになったと思う。
 心もリハビリ、とか言う馬鹿みたいな単語が浮かんだがあながち間違っていない。
「あの、嫌じゃなければなんですけど」
 少し早めの夕飯を食べ終わって、リビングで談笑する。真角くんが珍しく遠慮がちにするので、何だろうと思いながら続きの言葉を待った。
「アトリエ部屋、見せてもらえませんか」
 なんだ、そんなこと。大した躊躇いもなく良いよ、と返事してアトリエ部屋に続くドアを開ける。
「どうぞ」
 塗料と接着剤の匂い。学校の課題以外であまり制作をしていないせいで、濃い匂いを嗅いだのは久しぶりな気がした。
「わ……!」
 真角くんの感嘆を聞いて、俺はすぐさま後悔した。<もえぎさん>を崇拝する彼がこの部屋に入ったら……ああ、何でもっと注意を払えないのだろうか。少し考えれば分かることなのに。
「オレにとって、もえぎさんは魔法使いなんです」
 案の定、真角くんから出た賛辞にぞわりと鳥肌が立つ。ギャグ的な意味ではなく、とてつもない嫌悪が襲う。それは彼に対するものではないのは、分かっている。
「作られたモノ、全部すごいです」
「そんな、大袈裟」
 自分には大きすぎる感情を向けられて、それが切っ先のように恐ろしくも感じる。同時にへばりつくような、汚らわしいような感覚。チグハグで感知する器官が限界を迎えようとしている。
「オレの人生を変えてくれたって言っても過言じゃないです」
「やめろって」
「本当のことですよ! もえぎさんが居なかったらオレ……」
「だからやめろって!」
 空気が凍ったのが分かった。腹の底からぐつぐつとするのは怒りではない。理解できているのに、アレルギー反応みたいな過剰な反発が中から弾ける。
「そんなんじゃない、俺は、俺は! ただの凡人なんだ! じゃなけりゃ、何か作るたびに、こんなにささくれる訳がない!」
 薄っぺらい感情の吐露。年下の、真っ直ぐな、尊敬の眼差し。それに耐えきれないからといって声を荒げるなんて狭量にも程がある。自分の耳を塞ぐのではなく相手の口を塞ぐに等しい行為だ。
 自分が恥ずかしい。何度そう思っても、荒んだ心が擦り切れるたびに、──今この瞬間でも目を背けるのをやめられないのだ。
「ごめん、出て行って」
「もえぎさ、」
「出てけ!」
 大声と言うよりは、掠れた叫びだった。情けなさすぎる。溢れる涙を抑えることもできず、嗚咽めいた呼吸も整えられない。
「頼むから、俺を……」

 俺を見ないで。俺じゃない俺も、見ないで。

 乖離が苦しい。悩んでいいと言ったって、耐えきれない。受け入れるには器が要る。準備もいる。他人の手でザブザブとその有り様を注がれたら、決壊するのは分かっていたのに。居心地がいいという理由だけで、注がれ続けるのを無視していたのだ。自己中心的な発想で、自分も真角くんも無闇に傷つける結果を招いてしまった。
 真角くんは、何か言おうとして、数回口を開こうとした。どれも言葉を結ぶことはなく「お邪魔しました」と言って玄関を開けて出て行った。
 羞恥と涙が引いてきてから、のろのろと玄関のドアに触れる。
 真角くんに抱きしめられている最中、背中に押し付けられていたドア。外気の熱のせいかジリジリと熱い。それ自体は昨日も今日も変わらないのに、手のひらを伝う虚無が心にポッカリと空いた穴を通り抜ける。
 浮かんでは消える、真角くんの笑顔。眩しくって仕方ない。距離感近くて最初は抱きつかれて嫌悪すら覚えていたのに、昨日は……。互いに抱き合った温度が忘れられそうにない。
 花火の持ちかけたのも、昔話がしたかったからじゃない。
「好きだ……好きなんだ、俺は、真角くんが……!」
 情が湧いたなんて。どの口が。
 会えることを心待ちにしておいて、真角くん無しでいる生活なんてとっくに考えられなくて、だからこそ、俺へ向ける尊敬の念はもちろん情愛さえも耐えられない。
「ごめん、真角くん、好き、好きだよ……」
 誰もいない部屋の中、泣きじゃくる。

 向き合わなければ、進めない。
 制作のこと。真角くんのこと。俺自身に関わる全てのこと。

 ◆ ◆ ◆

 泣くと体力を使うのは分かっていても、勝手に出てきてしまうのだから仕方ない。そう思える程度まで回復したが、熱を出してしまった。
「ねつ……」
 体温計はないが、体感で三十八度以上ある時のダルさだ。息切れするような疲労感と倦怠感。学校、休んでもいい。ご飯、作ってもらった。細切れになる頭をどうにか動かして、飲み物と栄養剤は買ってこよう、と言う結論に至った。
 マスクをして、着替えるだけ着替えて、扉を開けると蝉時雨。速攻で心が折れてリビングのソファーに倒れ込んだ。
 しばらくそこで唸っていたが、エアコンの効きが良いのはアトリエ部屋だ。そちらのソファーで寝ていれば治ると踏んで、重くなった身体を引きずって再び倒れ込む。
 俺から生まれ出た作品たちに囲まれる。ガラクタと作品の境目を行ったり来たりするもの。極彩色が好きで彩度の高い色ばかり。たまのガス抜きでモノクロを使ってみたりして、自虐めいた笑いが漏れる。
 この色を選んだ意味は一体何だ。なぜ、極彩色が好きだと、自分でそう思った?
 考えてもロクにまとまることはなく、俺は目の前の四畳半のアトリエ空間から真っ暗闇な視界に逃げ込んだ。まぶたの裏に浮かぶのは真角くんの顔ばかりだったけれど、意識を保てなくて輪郭が滲んでいく。

 ──、……だよ。……の方が、絶対面白い。
 ──でも、……、怒られない?

 懐かしい気がする。すっかり忘れていたけど、覚えている。
 消毒液の匂いも、真っ白な壁や天井も、真角くんのギプスに書いた絵も……。
「だってさ、ずっと眺めることになるんだから模様があったほうがいいって」
「先生に怒られたりは……?」
 しないよ、と軽く言って油性ペンをありったけ持ってきたっけ。真角くんはその時、オレンジ色と恐竜が好きって言ったから、ちょっとネットで調べて見ながら描いたんだ。真っ白なギプスに色鮮やかな落書き。
「すごい……!」
「ね? この方が楽しいでしょ」
 うん、と大きく頷いてくれた。十歳の頃の真角くんは目をキラキラさせていたっけ。今の真角くんとなんら変わらない表情で……。
「どうやったら、そういう風に描こうって思えるの?」
 幼い真角くんからの質問は、とても簡単なものだった。
「自分だったら次にこの色を足したら面白いって思うからだよ」
 例えばさ、そう言って病室の窓側に引かれていたカーテンを開ける。
「この夕日に、何を足したら楽しそう?」
 ああ、そういう遊びもしたっけ。紙の花火もそういえば、全色使った方が綺麗だから、とかいう理由で円環グラデーションにした気がする。
「夕日だから、オレンジじゃないの?」
「何を足してもいいんだよ。真っ白なカラスとか、真っ赤な電車とか、何でも」
 それじゃあ、あのね! そう言って真角くんは……。

「夜になる前に…………」

 乾いた唇から漏れたのは、夢の境目に差し掛かった言葉だった。
 少しは眠れたらしい。汗をかいて身体が気持ち悪い。けれど、夢ははっきりと覚えていた。
「俺にとって、足したい色……」
 そんな風に考えて、最近作っていただろうか。価値や意味を先につけようとしてモチーフばかりに気を取られて。大きければ目に止まると安直に思い込んで……。
 身体の熱と朦朧とした頭は相変わらずだったが、両手に核を掴んだ心地がする。
 考えよう。風呂に入りながら。滞らせる支えを涙に変えて、汗と一緒に流しながら。