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 宇深と普通の友人同士では決してしないことをして、俺は頭を抱えていた。普通の関係ではないのは明らかで、でもそれで安定してしまいそうな気がしている。だが、そう思っているのは俺だけなのでは? という疑いが湧いてから部屋でウンウンと唸っていた。
 それでも時間は経つし、日付も変わる。忙しければ悩む暇もない! と切り替えることにした。
 
 バイト先の営業時間は、ちょっと変わっている。朝に八時開店、十時に一旦閉め、十一時半からランチ、十五時に閉めて十六時半から居酒屋に……という間隔で開けたり閉めたりしているらしい。基本的には七時半から十四時半までの勤務。四十五分休憩で賄い付きだ。厨房がメインとはいえ接客業でもあるため、気が張ってしまう。中学生の時、新聞配達のアルバイトだけが学校で許可されていたから働いた経験はある。けれど形式が全然違う。長時間になるのが、一番緊張する要因かもしれない。
 
 いよいよバイト先へ。面接で会っているとは言え、初日なので挨拶はきちんとせねばと緊張していた。私服ではなく、学生服を着てきた。何となく、『初日は正しい服装』の方が良い気がしたからだ。
「おはようございます!」
 店の入り口側から入ると、おかみさんがパタパタと準備をしていた。昔からある、いかにも定食屋と行った風情で、昭和な香りが大人な感じがする。木のテーブルに簡素なスツールみたいな椅子。カウンター席のテーブルも木で出来ていて、ところどころタバコの焼け跡があって、人の手によって使い込まれた深い色をしていた。
「おはようございます、川津くん! 今日からよろしくね!」
 活力あふれるおかみさんに、寡黙な旦那さん。旦那さんは今日が初対面だったので、厨房に入ってすぐ挨拶をした。
 初日はメニューを覚えること、皿洗いに徹することになった。スポンジで落とせる汚れを落としてから、業務用の食洗機へ。食洗機のアラームが鳴ったら引き上げて、食器を元の位置へ戻すという流れだった。簡単な仕事から任せてもらえそうで安心する。地元の食堂ということだから、朝よりはお昼時に混むと思っていた。
 
 とんでもない思い違いだった。
 
 朝のメニューは、日替わりモーニングは二種類。今日は焼き魚セットか豚汁セットで、白米と小鉢、お漬物は同じ種類。焼き魚セットには味噌汁が付くというもので、食事としては簡単そうに見えるものだった。けれどどんどん人がやって来る。「モーニング定食の魚!」とか「豚汁ね!」とか言ってさっさと席についていく客ばかり。で、ちゃっちゃと食っていくので洗い物がどんどん溜まっていく。サラリーマンや近所で自営業していそうなおじさんが多かった。旦那さんが黙々と作って、おかみさんが注文を受けて会計して、時折常連さんと挨拶したりしていて。俺は皿洗いだけをしているはずなのに、目の回るような忙しさになった。洗わないと次の人の皿がなくなってしまうのだ。
『人手が! どう考えても人が! 足りてないって!』
 雑にならないように、けれど素早く! 食洗機へ! はい終わった片付けて! たったこれだけの作業なのにあっという間に時間が過ぎていった。

 ランチの時間帯は案の定もっと混んだ。それでも、段々と慣れてきて、引き戸の音がしたら「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」が言える程度に、反射で反応できるようになっていた。途中で休憩時間をもらってたはずなのに、光陰矢の如し。ようやくひと段落した時には、退勤目前の時間になっていた。
「川津くんが居てくれたから、今日はいつもよりずーっと楽だったわぁ! 初日からありがとうねぇ! あ、そうだ。日払いの希望だったわよね。はい、これ。封筒に入れてあるからね」
 おかみさんが大袈裟に褒めてくれる。初日だし、優しくしてもらっているのだと分かっていても照れてしまう。封筒には自分で思っていたより多いお金が入っていて、ちょっとびっくりしてしまった。時給、一千円くらいの金額では? 七百円で告知されていたし、そう計算していたので嬉しい想定外だった。
「こんなに……。その、お役に立てましたか?」
「もちろん! さ、お腹空いてるでしょ。今日はお昼の時間に、お客さんが早めに来ちゃってあんまり休めてないでしょ。多めに賄い作ってあるから奥で食べてちょうだい。ちょっと早いけど今日はもう帰ってもらっても大丈夫よ」
 半ば強制的に休憩室として使っているところ――簡単に机と木の椅子が置いてあるだけで、周辺は所狭しと店のものが置かれている――へと押されて、肩を持って座らせられた。仮にも高校生なのに、中年女性に力で負けている感じがしてしまったけれど、おかみさんみたいな人種には大抵敵わないとしたもんだもんな、と思う。
「食べた後、眠かったら少しお昼寝しててもいいからね。隣に畳の部屋があるから。働くと疲れるでしょう。十五時から夜の仕込みが始まるから、それまでなら大丈夫だからね」
 おかみさんはそう言って、厨房に戻って行った。すごいバイタリティだ……と思いながら、ありがたく賄いをいただく。焼きを失敗したもの、提供する量に満たなくなったものの有り合わせらしいが、俺には十分すぎる量だった。ランチで出していたハンバーグと牛皿が同じ器に載っていてボリューム満点。マヨネーズのかかったサラダには旬のトマトときゅうり。お茶碗山盛りの白米。朝食の焼き魚がほぐしたものをおにぎりにしてある。持ち帰れるようにしてあって、隅々までの気遣いを感じてしまった。
「いただきます」
 母ちゃんの作る料理に似ている。味付けがしっかりしていて、白米はぴかぴかと輝いていて。素朴な味で……元気の出る味だ。寮のご飯だって、家庭的な味だけれどそれともちょっと違う。多分、田舎っぽいような、懐かしいような味がするからだ。
 バイト代でもらったお金をもう一度頭に思い浮かべる。自分の食費のことだけ考えていたけど、この夏に頑張って稼げたら母ちゃんとやりとりするスマホを送ろう、と思った。すっごく安いやつでもいいから、画像が送れるやつ。毎日、食うに困ってないよって伝えられるように。
『……やべ。なんか、泣ける』
 俺のスマホは持たせたくせに、自分のは勿体無いからって言い続けていて。「そろそろ母ちゃんのガラケー、メーカーでも保証がなくなって修理出来なくなるらしいよ」とか、「俺のスマホとセットにしたら無料で付いてきたいから」とか適当なことを言って、送ってみよう。自分の無事と感謝くらい、親に伝えたいんだからいいじゃんか。
 少しだけ実際泣いて、ぼやけた視界のまま完食した。

 ◆ ◆ ◆
 
 ほんの少しだけ仮眠をさせてもらって、バイトを終える。ケータイショップへ早速行こうと考えていたら、近くのコンビニに宇深が居て、遠慮がちに手を振っていた。終わるのを待っていたらしい。昨日の今日で何となく気まずい気分だったが、わざわざバイト先にまできたということは何か用事があるということ……。無視することもできなかったので、近づいていった。
「行こ」
「え、どこに?」
 お疲れ様、とかそういう挨拶みたいなものも無しに手を繋がれる。何か約束、していたっけ。そう思うくらい、当然のように歩き出すので、慌ててついていくしかできなかった。俺は学生服だから夕方や夜までは街を出歩けないのに、宇深はしっかりとした私服だった。襟のあいたグレーっぽいシャツに濃い色のジーンズ、革っぽく見える素材のスニーカー。腕時計や伊達メガネなどの小物は黒で統一されていて、雑誌で見ていたコーディネートとかを参考にしているのかなと思う。大学生にだって見えそうで羨ましい。
 それはそれとして、いい加減どこに向かっているのかを教えてほしい。
「今日、なんか約束してたっけ?」
「…………」
「なんかイベントとか?」
「…………」
「そういや、それって伊達メガネ?」
「サングラス」
 へぇ、そう……。そういう質問には答えるのね……。脱力気味に諦めが付いてきた。制服なのでヤバそうなところには連れ込まれないはず。そう踏んでいたが、たどり着いたのは駅だった。どうやら電車で向かうつもりらしい。この近辺だと思い込んでいたので驚いてしまう。
「えっ。何。どこまで行くの?」
「〇〇駅」
 数駅隣の駅名を告げられる。乗車するため、ICカードにその分だけチャージしようとしたら、切符を渡された。準備が良過ぎない? と言ったけれど、ここまで来たら着いて行かない選択肢がない。渋々ながら、切符を受け取って電車に乗り込んだ。
 
「えっ……と。本当にここ?」
 薄暗そうなビルの一階にある、怪しいバーの前で宇深は足を止めた。夜には早いからか、クローズの札がかかっている。とんでもなく入りづらい雰囲気だ。周辺のお店も飲み屋やラブホテルばかりで、制服姿だと補導されるのでは、と気が気じゃなかった。暑いはずの気候なのに、冷や汗ばかりが出てくる。
 クローズの札を無視して、躊躇いなく扉を開いた。鍵はかかっておらず、来客を告げるベルがカラコロと鳴る。ここに来るまでの道中、何とか聞き出せたのは「気になってる集まりがある」ということだった。集まりって何だ、集まりって。それが本当にこの中で行われているのか? 疑問しかなかったが、かといって、ここまできて置き去りにされるのは怖くて着いていく。
「マスターは居ますか」
 宇深からは微塵も緊張を感じさせない声で、堂々としていた。こういう場に慣れているんだうか。俺は宇深の背後に隠れるようにして、店の中へと足を踏み入れる。こんな格好だったら追い出されるのでは……とビクビクしていた。
「いらっしゃい。みーくん、かな?」
「そうです。初めまして」
 声の主はいかにもバーのマスターで、スラリとした男性だった。マスターというくらいだから、きっと中年くらいの歳だと思うが、若く見えて年齢が全然わからない。清潔感のある黒髪で、精悍な顔つきだ。白いシャツに黒いピッタリとしたベストを着て、長い前掛けエプロンをしていた。もっとおしゃれな言い方があるんだろうなと思いながら眺める。
 だが、目の前の男性よりも気になってしまったことがある。
「…………みーくん?」
 なんだ、そのあだ名。何でもないように言って……。しかも、「初めまして」って言った?
 困惑をよそに、宇深ことみーくんは勝手に話を進めていく。
「話してたリア友です。ちーっていいます」
「ええっ?」
 リア友と紹介されたのがちょっとだけ嬉しい……のだけれど、今まで呼ばれたこともないあだ名に戸惑う。というか、昨日されたことに対して……何か言う前にここに連れてきてどう言うつもりなんだろう。
「ちー君ね、初めまして。よろしくね。入店時にはアルコール消毒をお願い」
 あっさりと、事務的に通されて驚く。お酒が出るお店なのに、未成年でも通されるのはどういうことなのだろう。
「もう既に何人かは居るよ。紹介しよう」
 マスターに案内されて、店の奥へ、奥へと入っていく。地下へ続く階段を降りて、更に奥の席へ。薄暗くて、怪しいオレンジの色の照明がところどころにあって、読めない英語の看板やカタカナだらけのメニューがあって……。進めば進むほど、全く知らない異世界へと入り込んでいるようだった。
 
 そのうち、賑やかそうな声が聞こえてくる。
「タケチカさんって、うちらに全然何もしないじゃん。何でなの?」
「いや……だからね。僕も君らと同じだから、そういうのはできなくって……」
「だってさぁ〜。マスターが若い子は若い子同士でっていうんだよ? 年上なら年下にも構ってくんなきゃダメなんだよ!」
「ああぁ……困ったな……」
 奥まった円形の席。そこに三人の男女がいた。
 セーラー服の女子高生。ピンクと黒の、装飾が多いリボンだらけの、いわゆる地雷系女子。気の弱そうな、四角いメガネをかけた痩せたサラリーマン……。パパ活の現場? と思ったが、サラリーマンがイジられているような声も聞こえたので、よく分からない。
「や、皆んなに新しい子たちを紹介するよ。今日は見学だからよろしくね」
 マスターがそういって会話の中に入って行った。パッと見ただけでは共通点が分からない人たちの視線が、こちらに向いた。
『どういう集まり……?』
 宇深の後ろに隠れていたけれど、そのまま席に座るように促された。サラリーマンっぽい男性が、「ちょっとマスター、席変わって」と立ち上がって、女の子たちと距離を取ろうとしていた。その様子もまたいじられているので、本当に女の子相手に困っていたようだ。パパ活じゃないなら、一体何なんだ? 気弱そうな雰囲気のまま、俺に会釈して隣に座り、その男性と女子高生の間にマスターが座った。
「ていうか、イケメン来た〜!」
 テンションの高い黄色い声を、半分無視して宇深は小声で俺に話しかけてきた。
「ここ、ちーは気にいると思う」
 普段あまり見せないような、優しげな微笑みを浮かべるものだから、固まってしまう。俺は何か言わないと、と思って、固くなった唇まわりの筋肉を懸命に動かした。
「えっと……。みーくんの、……顔見知り?」
「対面は初めて」
 その場に合わせたあだ名がありそうな気がして、言い慣れない名前で呼ぶ。みーくん、なんて可愛い響きに口の中がモゾモゾとした。円形の机の上には雑多なお菓子や飲み物が置かれていて、長いこと談笑していた様子が見てとれる。
「あれ、みーくんてば。ここがどういうトコか説明してない感じ?」
 地雷系の女の子が、前のめりになってこちらを見つめる。カラコンに長いまつげ。しっかりと施されたメイク。作り込まれた人形が動いているみたいで、目が離せなくなる。
「えっとね。ここは食べたい人と食べられたい人が出会うトコ! きゃわたんな相手はどんどん持ってかれるから、早めに来て、早めに違うところへ行くのがおすすめ!」
「のあちゃん、それじゃ分からんて」
 セーラー服の女子高生が笑いながら言う。一見するとタイプが違い女子同士、仲が良さそうな雰囲気が垣間見えた。
「初めまして。みーくんのお友達かな?」
「はい、えっと……。ちーです」
「なになに、制服? リアルDK? 若すぎるんだが!」
 話が進まないから、のあちゃん後でね、と女子高生は宥めていた。彼女の方が地雷系よりも年下に見えるのに、まるでお姉さんのように振る舞っていた。
「改めて説明するとね。ここはマスターが場所を提供してくれている、被食者と捕食者がマッチングできるコミュニティ。自分の趣味とか共有できて、気に入った人がいればそのまま付き合うことになることもあるよ。おしゃべりばっかしている人もいるし、お互いの趣味とか欲求に応え合う関係の人もいる感じ。まずは会話からっていうのがここのルールとマナーかな」
 被食願望と捕食願望を持つ集まり……。正確には近似値の性癖をもつ集団……。
 言われた内容を咀嚼しながら、全員の顔を改めて見渡す。地雷系の彼女も、真面目そうに見える女子高生も、マスターも、隣のサラリーマンも……。被食願望と捕食願望を……。
 大丈夫そ? と首を傾げられて、ドキッとする。俺が女子に免疫がないのもあるが、普通に可愛い子なのだ。セーラー服の子は黒髪ストレートで、ナチュラルなメイクだけしていて、本当に普通そうに見える。被食と捕食という単語が全く結び付かなかった。
「ま、一旦自己紹介しよーよ! うちはのあ。食べられたい側、二十歳です〜」
「私はリオ。被食側です。よろしくね」
 あっさりと、食べられたいだとか、被食側だとかが飛び交う。ここではそれが普通なのか? 混乱する俺を取り残して、宇深が口を開いた。
「改めまして、みーです。捕食側。……多分、体液が好き。」
 体液!? 生々しい単語にぎょっとしたが納得してしまった。涙を啜ったり、精液を引き延ばしたり、……そうか、昨日していたのもそういう理由があったのだ。
 女の子たちはキャーキャー言っていて、アウトな体液ってある? とか聞き出していた。アウトとかセーフとか、何? と更に置き去り気味になる。
「で、ちー君は?」
 ひとしきり盛り上がった後、とうとうこちらに矛先が向いた。身体が固まる。この流れに逆らうのも変で、何とか声を絞り出した。
「俺は……。間違いなく被食側です。最近、被食願望を知ったばかりで」
 そこまで言って、言葉が詰まる。それでも全員、冷やかしたり急かしたりすることなく話を聞く姿勢のままでいるので、逆に躊躇ってしまう。
「ひ、……引かない?」
「大丈夫だよ! 皆んな結構エグいよ?」
 明るくのあちゃんは言うが、半信半疑だった。それが伝わったのか、リオちゃんが口を開く。
「私、生理中の血を食べてもらうのが一番好き。それから噛み痕をつけられるのも。でもねー、理想は食べて食べられること、なんだ! 我ながらハードル高くしちゃっててさ」
「のあはね、リボン結びにした髪の毛を砂糖で固めて、それをおやつみたいに食べて欲しいの。……やってくれた人は、まだいないんだよね。ほんのちょっとでいいのに。だから、ピンクの髪の毛にしてる。可愛いでしょ?」
 リアルで想像すると、確かにグロいしエグい。可愛くラッピングされているのに、蓋を開ければ血と肉と髪。人によっては遠くにぶん投げたくなる不気味さだろう。
「そのっ……俺、……」
 だが、それを上回る気味悪さを俺は抱えている。カジュアルに話せない。面白おかしく話せない。
「分かる。勇気いるよね。話したくなったらで大丈夫だよ。ちー君にとって、すっごく大事なことだと思うから」
 のあちゃんの、ふわふわした声に今までの苦難を経験したものが見え隠れしていた。先に色々話してくれたのは気遣いだ。ここだけの話なら……。
 本当に? こんなこと、話して、本当に大丈夫なのか……?
「……食材、として扱われたくて」
「食材?」
 緊張で大量に口の中に溢れてくる唾液を飲み込む。虫に食料として扱われることも、宇深に甘味として舐められるのも、つまりは……。
「バターとかジャムみたいに、食べてほしいとか、そういう……」
 最後の方は言葉にならなかった。何を、とは言えないし。どんなふうに、と言うのもこれが精一杯だった。どうしても今は、虫に食われるのが好き、と言えなかった。
 少しだけ、シンとした空気になった。絶対気持ち悪いって思われている。やっぱり言うんじゃなかった。宇深の前で具体的に言うのも初めてだった。自分の内側にある、引っかかれたら一段と痛くなるような、柔らかいところを曝け出している気持ちになった。
「分かる〜! なんかさ、そういうの嬉しいよね! ざっくり食べられちゃうの」
「栄養になる嬉しさっていうかぁ、その人を通して生きてるって感じも、いいよね」
 キャッキャッとはしゃぐような声音で共感された。サラリーマン風の人も、静かにうんうんと頷いている。たったそれだけの光景で、じん、と胸の奥が痺れる。
 今日の母ちゃんの飯を思い出した時みたいに、目の奥が突っ張ってポロポロと涙が出てきた。止めよう、止めようと思っても、堰を切ったように溢れ出す。
「こんなのっ……! 誰にも受け入れてもらえないと思ってた……!」
 すぐに呼吸が苦しくなって、しゃくり上げるように泣いてしまった。しばらく、俺の嗚咽が響いていた。つられてのあちゃんやリオちゃんも泣いていたみたいで、「つられ泣きする〜」と笑う声がしたけれど、深く共感してくれている実感が持てる声だった。
「本当に、……一人で悩んでたんですね。同じですよ、私も」
 サラリーマン風の人に背中をさすられて、余計に涙が出る。恥ずかしくもあるが、嬉しさが胸の中に溢れていた。宇深に、テーブルの下で手を握られる。無言だったけれど、壊れ物を扱うみたいに丁寧な手つきだった。
「病気なんじゃないか、とか。異常なんじゃないか、とか。思い悩みますよね。特に子供の時は周辺に同じような悩みを持つ人はいませんから、分かりますよ」
「被食症と捕食症って呼ぶ人もいるからねぇ。でもねぇ……、こっちとしては個人的に病気のつもりがないから、嫌になっちゃうよね」
 ちゃんとしてそうな大人の人にも優しい声をかけられて、安心してしまう。そうか、俺は誰かに、やっぱり認めてもらいたかったんだ。今それを、いっぺんに受け取ってしまって、キャパオーバーしているんだ。頑張って呼吸を整えた。こんな話ができるなんて。こういうこと、思ってもいいんだ。
「見てのとおり、ここのマスター。そのままマスターって呼んでね」
 ちなみに僕は捕食側、とウインク付きで微笑まれた。それが何だか可笑しくて、「俺でもアリなんですか、それ」と泣き笑いのままツッコんでしまった。
「私のことはタケチカと呼んでください。休日であればここにいます。同性の被食側同士、仲良くしてくださいね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 下手くそな笑顔だったと思うけど、感謝したい気持ちでいっぱいになる。肯定されて、初めて息ができるようになった気持ちだった。
「……みーくん。ありがと」
「ん」
 宇深が何を思ってここに連れてきたか分からない。不審というか不思議に思うことはいくつもある。食材みたいに食ってきたのは昨日が初めてだったのに。何もかも根回ししているような……。それに、宇深の体液が好き、というのは俺が原因なのかもわからない。聞きたいことがいっぱいあるけど、胸の中にあった重いものがなくなってスッとしている。
 
 学生服なので、もう帰らないとならないことを告げて、バーを後にした。開店前であれば何時でも開いていることを聞き、近いうちすぐに顔を出すことを伝えた。似たようなことを感じている人たちと、ゆっくり会話したい。
 
 電車に揺られる。怖いくらいに鮮やかな夕焼けが広がっていて、学校のカメラを持ってくればよかったな、と思った。少しずつ日常を過ごす景色に近づいてきて、たった数駅先の別世界から、帰ってきた感覚が不思議でたまらなかった。
「宇深が考えてること、やっぱよく分かんない」
 思わず漏れた独り言だった。でも、宇深はどこか満足気に笑った。