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「ね。今、どういう気分?」
 心臓と呼吸がめちゃくちゃになるのは、受け入れる側でも求める側でも、どちらも変わらないんだと知った。愛し合う……というよりも、突き進むしかなかった行為だったが、馬鹿馬鹿しいような気持ちに溢れてスッキリしている。童貞よりも前に処女を失くしていたことに、ずっと強烈な違和感を抱えていたのを今まで無視していたみたいだ。知らず知らず、心身のバランスを崩していたのかもしれない。童貞でなくなったことは、明らかに精神に変化をもたらした。
「なんか……。色々張り詰めてたのが、馬鹿らしくなった」
 気が抜けたように言うと、いいじゃん、そういうもんだよ人生って! とリオはあっけらかんに笑った。ああ、これがピロートークってやつだ……。他愛のない会話をする彼女がやたらと可愛く見える。全裸のままシーツの海でパタパタと脚を交互に動かす幼さと、朗らかに笑う彼女の体温が心地よかった。
「なんか、ちーのこと気に入っちゃったな。一生懸命で」
「……そりゃ、初めてだし、頑張りもするよ」
 そうじゃなくてさ、と彼女は俺の髪に触れる。真ん中分けにしていた髪は、汗でおでこに張り付いていたみたいだ。うっとりと見つめ合い、唇に触れ合うだけのキスをする。それが、この行為のラストだと何となく分かった。
「ね、これからも呼び捨てにしよ。私、ちーって呼びたい」
 そう微笑まれて、胸の奥の何かが溶けてなくなっていく。それは躊躇いだとか、我慢していたことだとか、願っていたことだとか、そういった類の蓋や箍だ。全部を曝け出してしまってもいいのかもしれない。欲望も、欲求も、願望も、――。その蓋が完全に外れるのを恐れて、服を着込んでいく。
「またおいで。私、ほとんど毎日来てるから」
 そう言って彼女は腕を絡ませながら、俺に擦り寄った。心の距離や体の距離が近づいたはずなのに、俺は今、宇深に食われたくて仕方がなかった。
 セーラー服をひとつずつ身に付けていく彼女は、元通りの女子高生へと戻っていった。セックスしている時に見た淫らな人はどこにもいなくて、お姉さんみたいな表情で笑う。元々可愛いと思っていた。セックスした後だと、余計に可愛く見えた。放っている光が違う。目が潤んでいて、一際輝いていた。
 部屋から出ていく時に「ご馳走様でした」と聞こえたので、ああ、やっぱり食われたのは俺の方だったんだ、と受け入れてしまった。

 ◆ ◆ ◆
 
 宿泊棟での夜は静かなものだった。宇深もバイトをしているらしいが、二十時の門限を過ぎても部屋にいない。今日はこれからの予定が合わなそうだと判断して、共同浴場へと向かった。
 寮にも共同風呂はあるが、人が多いのであまり落ち着いて湯船に浸かれなかったので、のびのびと入浴を楽しむことができて満足している。時間帯が合わないのか、宿泊棟と風呂場含めて上級生とはまだ会っていない。一人で広い風呂を独占できる喜びは何にも変えがたく、全身を石鹸で洗ってあごまで浸かった。
「っはあぁぁ……」
 おっさんくさい声が漏れたが、今日の疲労感を癒すのにちょうどいい湯加減だったから仕方ない。湯気で満ちた空気が小窓に張り付いて滴り流れているのを眺めながら、今日を振り返る。目がまわる思いをしながらアルバイトに勤しみ、コミュニティに顔を出して、マスターとちょっと深い話をして、それから、……。俺、童貞じゃなくなったんだ。
 そう思うとなんていうかもう、堪らなくて、湯に潜った。リオの柔らかい肌の感触や匂いを思い出して……ガボガボと音を立てながら湯の中で叫ぶ。叫んで少し落ち着いて、また同じように叫んで……というのを繰り返していき、のぼせそうになったので一旦湯船から脱出した。
「……食われちゃった」
 ムニュムニュしてるんだよ、という声がリフレインして、結局浴室で叫ぶ。
 リオに食われた。あれは、下からじわじわと侵食するような食い方だった。舐り回して、形を確かめるためにうねって、……。温かくて、蜜がたっぷり詰まった壺に飛び込んだみたいだ。あれ、消化する液だったんだよ。食虫植物のツボみたいに。じゃあ、リオも虫と同じで俺を食っちゃったってこと。ちんこ溶かされそうになってたじゃん、身をもって知っているでしょ。じゃあ何、バナナみたいに食われちゃったってこと。誰の声ともつかない、訳のわからない合いの手のようなものが入って考えがまとまらなくなっていく。
 待てよ、と思う。相手を受け入れる側は俺もやった。俺をレイプした宇深を、俺は「食った」と言えるだろうか。あれは明らかに暴かれたという感覚だった。異物をねじこまれ、奥までこじ開けられた行為だった。とてもじゃないが自分が宇深を食ったとは思えない。
 宇深は……、何を考えているか分からないが、一応俺のことを考えて、合わせてくれているのだと思う。本当に、有無を言わさないような……暴力的に身体を暴かれたのは初めだけだった。突飛な行動に見えて、結局俺が満足するような結果に結びつけるので悪くも言えない。食われる、と俺が感じられることが何なのかを、俺よりも理解しているのかもしれない。
 それはそれとして。
 自分は相手が誰でも、立場がどうであっても、喰われると言う感覚にしかならないのか? 都合よく何かを解釈してしまうのと、願望を持つことの違いは一体どこにある?
 弱肉強食っていう言葉がふと浮かぶ。じゃあ俺は、真っ先に食われるくらい弱いから食われることに甘んじているのか。食われることに価値があると思っているのは、自分があまりにも弱いことを認めないまま、「そういう性癖なんだ」って誤魔化しているだけなんじゃないのか。
 背筋が寒くなってきて、もう一度湯船に浸かる。
 いやいや。強い必要ある? 何のためにその強さってやつが必要なの? もしかして金本とか柿谷とか、そういう男っぽい連中と比較してる? 弱者男性まっしぐらコースで、お先真っ暗になりそうだから焦ってる? ていうか、まぁ? リオに食われてちょっとしたショックを受けてるってことは、少なくとも女よりは自分のほうが強いって思ってたってことだし、それ自体が心の貧しさを表してるよね。
 塞がりかけた傷口に指を入れられるようだ。自分の声で再生される言葉の数々は、夏休みに入る前の俺から向けられたものだ。居心地の悪さも、胸の痛みも、割れて飛び散ってしまいそうな精神も。たった二週間かそこらで修復できるわけがないのに。
 いっそここで溺れ死んだら、季節も手伝ってこの中に溶け切れるんじゃないのか。あるいは、本当に誰かの肉を食べたら、弱さみたいなものが消えるんじゃないのか。
 一方で死ぬより先のことを想像して、一方で生きるには行き過ぎたことを考えている。背中を伝う気泡が柔らかく離れていくのを感じ取りながら、俺はもう一度湯の中に潜った。

 ◆ ◆ ◆
 
 バイトは順調で、常連さんの顔を覚えて少しだけ世間話ができるようになっていた。洗い物だけでなく、注文の受付とレジ打ちも習得して、前より楽しく過ごせている。賄いは相変わらず美味しいし、いいことづくめだ。それから、働いている間は忙しくしているから、指の皮を剥かないで済んでいるのもあって、少しだけマシな指先になってきた。できることなら学校が始まっても働き続けたい。冬休みの時にまたバイトとして来てもらえないかと言ってもらえたのは嬉しかった。まだ予定が見えないので返事はできていないが、ぜひ働かせてほしいとおかみさんに伝えた。おかみさんが本当に嬉しそうにしてくれるので、俺でも少しは役に立っているのだと実感できる。ここだけ切り取ったらすごく健全な夏休みだ。
 今日は宇深と、待ち合わせをしてからコミュニティへ向かう約束をしていた。バイト近くのコンビニで待ち合わせて、電車に乗る。電車内の涼しい風が身体を通り抜けていって、夏の暑い日が少し好きになる瞬間だった。
「宿題、終わってる?」
「ん」
 やるじゃん、とおだてるようにいったら、宇深が少しだけドヤ顔になった。そんな面白い感じになるとは思っておらず、雑にツッコむ。車両にほとんど人がいなくて、いつもよりも自宅にいる時のようなテンションになっていたと思う。
 他愛のない話をしていると、宇深とアレコレしていたのがすごく遠い日のことに思えてくる。宇深にリオとセックスしたことは話してない。コミュニティの元々が、お互いの趣味嗜好に合わせて協力しあうような雰囲気もあった。だから、リオは俺とだけ寝ているわけではないだろうし、何となくそのことを話すのは気まずかった。それよりは、何も影響のないどうでもいい話をし続ける方が、楽しかった。

 クローズの札をいつも通り無視して店の中へ。マスターに声をかけようとキッチンを覗き込んだが、居なかった。いつもの席にいるのかも、と思いながら階段を降りていく。
 今度、マスターにお願いして店の中を撮らせてもらえないかお願いしてみようかな、と考えながら周辺を見る。オレンジの光に満ちた空間は何かが起きそうな期待と、いつでも受け入れてくれるような安心感を持ち始めていた。何となく、海辺をイメージするような色でもあって、この前飲んだレモン水を思い出す。
「……?」
 地下に降りたところで、前を歩いていた宇深が足を止めた。不思議に思って声をかけると、無言で奥の席を指差す。
 なんだか、いつもの席が騒がしい。
「じゃ、次の生理の時、教えるね!」
「おお。予定が合えばな」
 衝撃的に思える会話が聞こえてきた。テンションが高めのリオの声に、新しいメンバーになる人かもと思い至る。ただ……声に聞き覚えがある。宇深も同じように感じ取ったみたいで、ゆっくりと近づいていく。
「ねーねー! 歯形つけるのとか好き?」
「あー……無しじゃねーかも」
 会話の邪魔にならないよう、そっと席を覗き込む。コミュニティでは初めて見る人の後ろ姿のはずなのに、途轍もない既視感があった。短めの金髪。服の上からでも、引き締まった身体をしているのが分かる。ピアスがいくつか増えていて……、全ての人を見下し切った態度。間違いようもない。どこをどう見ても、いじめの主犯格がそこにいた。
「か、っ……!」
「ヨォ。夏休みで会うの、初めてじゃね」
 上手く声が出てこなかった。俺の混乱をよそに、女子二人を侍らせたまま、尊大な態度で軽く手を振る。じっとりと粘着くような視線だけで、俺の心臓がぎりぎりと捻れそうになる。
「改めまして、俺はリヒト。特技、パルクール。多分食いたい側。血まみれが好き。よろしく~」
 なんで。どうして。どうやって。何を言えばいいのか、自分でも訳がわからなくなっていった。ぐるぐると頭の中で聞くべき言葉が混ざっていって、灰色のモヤがかかっていく。何も考えたくなくて、目の前の出来事から逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
「ふぅん。みーくんとちーと、知り合いっていうのマジなんだ」
 リオが声を弾ませる。さっき、生理の話をしていた? それは……リオが所望してる生理中のセックスができそうな相手に巡り会えたから? 俺とのセックスよりも、楽しくなりそうってこと? リオが金本を受け入れていることに、ひどいショックを受けた。違うんだ、リオ。そいつ、俺をいじめてるやつで、本当にやばい奴なんだ。
 だから。俺に向けていたような、天使みたいな笑顔を振りまかないで。
「みーくん? 何、ここの名前?」
 宇深に対して、嫌味っぽい言い方をした。宇深は驚いたような顔をしてたが、段々といつもの無表情へと戻っていく。ため息を静かに吐いて、それきり何も言わなかった。
「リヒトくんってドSっぽい! てかめっちゃかっこいいね!」
 のあちゃんも、金本にくっついていた。宇深が来たときもイケメンが来たとはしゃいでいたのを思い出す。男好きでもなんでもいいけど、そいつだけは止めた方がいい。可愛く着飾った姿も、舌足らずな可愛い声も、そいつのために使うことなんて一つも無いのに!
「まぁでも、結局お前なんだよな〜」
「ヒッ……!」
 俺の腕を掴んで引きずり込む。大げさな動きで肩を組んできて、そのまま肩を鷲掴みにした。金本の握力が強くて、身を捩る。本人はスキンシップと罰ゲームの半々くらいのつもりなんだろう。恐怖と嫌悪で、背中に毛虫が這うようなゾワリとした感覚がして身動きが取れなくなる。写真部がなくなった時と同じだ。メンバーを追い出し、自分のシンパみたいな人種で埋めていってコミュニティ内を占拠しようとしているなら……。
 宇深と目が合う。
 またお前が? なら何のために? 俺をここに連れてきたように、宇深が金本もここにくるように手引きしたのか?
「あれ、新しい子? 僕、聞いてないんだけど」
 宇深と言葉を交わす前に、マスターがやってきた。いつもと違って少しラフな格好で、普段身につけている黒いエプロンをしていなかった。もしかしたら、少しざわついた雰囲気を聞きつけてくれたのかもしれない。
「ちーとみーくんのリア友。リヒトっす。食いたい側。よろしくです」
 俺はこいつを呼んでいない。マスターに助けて欲しくて、半泣きになりながら何度も首を振る。宇深は、何のアピールもしなかった。
「奥の部屋、借りて良いって聞いたンすけど、早速使ってもいいすか?」
 金本は図々しい言い方をわざとしているみたいだ。会話をすることがここのルールとマナーだった。そんなものはお構いなしに振る舞っても許されると思っているのか、自分がどこまで踏み込んでいいのか、試しているみたいだった。視線だけで、金本とマスターがやり取りしているようにも見える。
「……あくまで合意の上でね」
「大丈夫ですよ〜ガッコで似たよーなことしてるんで」
 
 な?
 
 悪魔みたいな笑顔だった。けれど、ここで俺が騒いだら……このコミュニティはどうなる? 俺が気軽に被食欲求について話せる場所はどこに行く? リオやのあちゃんと話せることもなくなって、マスターにも迷惑になるんじゃ……。そう思うと、怖くて身体が竦んで動かない。嫌なら嫌、と言わなければ、合意したことになってしまうのに!
「じゃ、しばらく借りますンで」
 金本は、そう不敵に笑って、俺の首根っこと髪の毛をまとめて掴んで引っ張った。