12

 少し湿気混じりの空気が頬を撫でた。いつもと違って、街中が浮かれている。大きなお祭り当日だったためだ。屋台の準備に取り掛かっている人たちや、普段は見かけない露天商が居た。非日常を抱えた雰囲気が大通りからこの歓楽街付近にまで漂っていた。
 バイトの後、腹ごしらえをしてからいつものバーへ。風俗店やラブホテルが並ぶ通りを抜けて店の看板が見えてくると足取りが軽くなる。店の前でメンバーが駄弁っていた。まだ鍵が開いていないらしく、待っているようだ。太陽が仕事しすぎていて、立っているだけでも蒸発してしまいそうな日差しの中、かろうじて影になるわずかな屋根の下で固まっていた。
「ちー。やほー」
 リオが挨拶してくれたけど、他のメンバー……というか、男子組は何とか手だけ振ったみたいな仕草だった。暑くて死にそうになっているのは何となく理解できた。そのまま、一団に合流する。
 のあちゃんは宇深とイチャイチャしながらおしゃべりをしていたみたいだ。といっても、のあちゃんが一方的に話しかけているだけで、宇深はスマホのゲームを惰性で触っているようだった。のあちゃんが来ている服が見慣れなくて、俺はまじまじと見入ってしまう。ピンク色のギンガムチェックに黒いレースがあしらわれた浴衣みたいなワンピースで、いつも以上に装飾が煌びやかだ。地雷系の浴衣ってあるんだ、と素直に感心してしまった。
「あ、ちーたん。今、のあのこと可愛いって思ったでしょ」
「ああ、うん。ワンピ、似合ってんね」
 ちーたん分かってる! と弾けるような笑顔を見せるので、ちょっとだけドキリとした。二十歳の大人らしいのだけれど、どうしても年上に思えない。初対面の時、リオがお姉さんのように振る舞っていたことが印象強く残っている。自由人というか、女の子のままであろうとするというか、ピンク色のリボンへの執着は、そういう少女めいたものを無理やりくくりつけているようにもみえる。似合っていると思うけれど、単なる可愛いアイテムではないことは薄々感じ取っていた。
 遠くで祭囃子が聞こえてきた。「わはは」と豪快な笑い声だったり明るい話し声だったり、いつもとは明らかに賑やかな声だ。
「あーあ、なんでこんな日に塾なんだろ」
 リオはわざとらしいくらい、うじうじとした物言いをした。相変わらずの制服で、セーラー服の白色が眩しい。片手にカフェのカップを持ち、残り少ない中身を、音を立てて啜る。夏期講習なんて申し込むんじゃなかった、と呟くので、俺も二年になったら行く道だなと思った。本当は今年から塾に行った方がいいのだろうけど、金が無い。バイトで稼ぎつつ、賄いで食費は浮かせつつ暮らしているけれど、色々なことをしようと思ったら、いくらあっても足りない。今稼いでいるうち、いくらかは冬季講習のために貯めておこうか、と算段を立てようと決めた。ただ、今は暑くてそれらしいことは考えられない。
「バーがこの時間に開いてないの、珍しいね」
 流れ出る汗を拭う。駅前で配ってたうちわでパタパタと扇いでいたら、宇深がひょいと奪っていった。一言断りくらい入れろ、とツッコミを入れたが気持ちはよく分かるのでしばらく貸してやることにした。無言のまま風を受けているのを見て、暑さで平たくなっている猫を思い浮かべる。
「オイ、マスターから連絡来てる」
 おもむろに金本……リヒトがそう言った。オーバーサイズの白Tシャツにグレーのスウェット、真っ赤なスニーカーという出立ちだった。シンプルなのに、チンピラに見えるから笑えてしまう。生来ガラが悪いことがはっきりしていて、いっそ愉快だった。笑うと殴られるに決まっているので表情には出さない。俺が同じ格好をしたらイキった中学生くらいにしか見えないんだろうな、とも思う。
「えーっと、マスターは何て……」
 時々、足りないものを直接買い出しに行ったりすることもあるので、開けるのが遅くなるという連絡だと思っていた。だが、そこにあったメッセージはいつもより大袈裟な様子が映っていた。色々書いてあるけど、要はお店が臨時休業になることを伝え忘れた、という内容だった。普段のイメージというか、かっこいい男性が使っているとは思えない、ファンシーなクマのスタンプ付きで送られてきた。
 その画面をそれぞれに見つめて、しばしの沈黙が落ちる。考えていることは、皆んな同じだと思う。急に暇になって、時間を持て余している……。
「……行く? 夏祭り」
 そう俺が口にすると、それぞれで顔を見合わせた。

 ◆ ◆ ◆

 リオは夕方になったら離脱するらしいので、それまでひとまず見てみよう、という流れになった。とはいえ、とにかく暑いし、涼みたい。けどみんなそんなにお金を持ってない。かといってカラオケやゲーセンに行くのはなんか違うような気がする。
 ふと、街の中心には、大きな公園があったのを思い出す。その周辺には市役所とか、公共施設の建物がいくつもある。噴水や広場があったので、出し物や屋台が明るいうちからありそうな気がした。必然、座って休めるところもあるはずだ。十分もかからない距離だったはずなので、一旦その方面を目指すことにした。
 茹だるような暑さで蝉時雨がやかましい。それでも、みんな割と陽気な気分に包まれていた。空は気持ちよく真っ青に染め抜かれていて、陽射しは眩しくて仕方ない。
「結局、ブルーハワイって何味なんだって思わね?」
「あー、ね。シロップ、本当は全部同じ味らしいけど色でそう思い込んでる説とかね」
「さすがにそれはないって〜!」
 いつにも増して、メンバー全員がくだらない話ばかりをしていた。側から見たら仲のいい男女グループに見えるんだろう。俺がいなかったらダブルデートに見える組み合わせだろうなと思いながら、全員が俺を食ったことがある事実から目を背けた。

 地面から直接ふき上がってくるタイプの噴水は、しっかりと稼働していた。暑さの中で水遊びに興じる小さい子たちで賑わっており、子供特有の甲高い笑い声が響いていた。近くでそれぞれの親が見守っていたりして、俺もああいう遊びが好きだったなと懐かしくなる。自分から水を浴びに行って、見知らぬ子と何となく追いかけっこみたいになったりして。水たまりを足で踏むのも、飛び出てくる水が直撃するのも、全部楽しいものだ。さすがに、ちびっこに混ざって噴水遊びをするつもりはないけれど、何も気にすること無く水浴びできるのは羨ましかった。
「ね、向こうにかき氷とかあるよ」
 リオが指さした先には設営テントや屋台が並んでいた。設営テントの下で、法被を着た大人たちが昼間から酒を飲み散らかしている。席も空いていそうだったので、広々使えるところに腰を落ち着ける。日陰というだけでも身体が休まる。近くに瓶のラムネが売っていたので、かき氷や焼きそばなどの定番メニューをそれぞれに買って、話に花を咲かせた。

 山のようなかき氷を食べたおかげか身体がだいぶ冷えて、腹ごしらえも済んだ。何か面白い催しはないかとスマホで公式ページを見る。大きいステージだと、ライブやダンスの発表なんかもあり、神輿以外にも観るポイントがありそうな雰囲気だった。
「暑い夏の思い出! シニア部門は高校生以上! 飛び込み参加OK! 挑戦者をまもなく締め切ります!」
 アナウンスされていることが断片的に聞こえてくる。何かのゲームに参加するように聞こえたので、近くで配られているチラシを見てみた。
「水鉄砲で撃ち合うみたい。えーと、『三人で一つのチームを組み、最後まで頭に羽根がついている人が多ければ勝利』……だって」
「羽根が全員落ちない限り、負けにならないし人数不利にもならないわけか」
 ……こういう日は、普段じゃ絶対やらないようなことをやりだす。証拠にリヒトは「オレはそこまで興味ねぇけど暇だし付き合ってやるよ」オーラが出ているし、みーくんだってどこかウズウズとした空気を醸し出している。二人して、なんで俺を見るんだ。俺は運動神経が悪いから全然気乗りしないのに。俺が言い出さないとおかしいみたいな雰囲気になっていく。
「……やる?」
 いらない空気を読んだと思う。途端に二人の表情が明るくなって、リヒトに至っては「しょーがねーなぁ! ちーはそういうの全然ダメだもんな〜!」とか言い出した。
 スタッフの人に声をかけて、受付と同時に渡されたのは羽根が生えたヘルメットと水鉄砲。それから一人五個ずつの水風船だった。対戦相手は酔っ払ってるおじさんや、法被を着ている若い人などがいたので、ゆるい催しなのだろうと想像できていたのだけれど。
「やるからには勝ァつ!」
 誰がどうみても一番張り切っているのはリヒトだった。宇深も準備運動を始めているし、何がそんなに楽しくなるようなスイッチになったのだろう、と思いながらヘルメットを被った。

 ◆ ◆ ◆
 
 結果、俺たちのチームが優勝した。リヒトが前衛、みーくんがカバーに回って、俺は水風船を遠くから投げる、というのが自然な形となってバランスよく戦況有利を作り出していった。打ち合わせも何もしなかったが、息が合うプレイをしてしまったのが微妙な気持ちになる。参加チームがそこまで多くなかったのと、参加者の中で最年少だったので、もしかしたら花を持たせてもらえた可能性もあるが、景品があったので得をした気分になった。
 ちなみに、記念品Tシャツを参加賞としてももらえた。散々に水を被っていたので、全員さっそく着替える。水浸しになったおかげで暑さはかなり和らいでいた。
「クッソダセェ」
「ずぶ濡れよりマシ」
 祭りの名前と日付が入ったなんてことない白Tシャツだった。みーくんもリヒトも、地元が好きなことを隠さないヤンキーのように見えて、俺は全く我慢できずに笑ってしまう。三人で同じTシャツを来ていると、高校の学園祭で見かけるようなクラスTシャツを着ているようにも見えて、少しだけ恥ずかしかった。
 本命の景品は、《肉三昧食べ放題》と達筆な筆文字で書かれた白封筒だ。近々オープンする店舗の招待券が人数分入っていた。同封されているチラシには北京ダックだとか、ローストビーフだとか、色々な肉料理が載っている。動いた後だからか、腹が鳴った。
「……ステーキ、あるかな」
「あるんじゃねーの」
 写真は載っていないけど、このラインナップだったら当然のようにありそうだ。まだ知らない味だったりするが、噛み締めれば噛み締めるほどに肉汁が溢れて濃いソースが絡んで……。きっと口に入れた瞬間から幸せになる味なんだろう。肉厚で、レアで焼いた牛ステーキを想像して涎が出た。
「俺、ステーキ食べたこと無いんだよね」
「人生で?」
「うん」
「一回も?」
 はっとなって顔を上げると、少し驚いたような顔をして俺を見るリヒトが居た。俺は、俺の貧乏を憐れまれたくなかった。どうせこいつは、きっと何かの祝いとか……誕生日とかじゃなくて、運動会で頑張ったから、みたいなご褒美としてたくさん食べてきてるのは想像がつく。
「まぁ、ささやかな夢……みたいな」
 これ以上、この話を続けたくなくて、曖昧に笑ってごまかした。今言ったこと自体が、家庭の格差を表していることに他ならなかったとしても。何で金本にこんなこと話したんだろう。こんなこと言って、また貧乏のちーちゃんって思われて、からかいのネタが増えるだけなのに。
「お疲れ~! みんなカッコよかった!」
「スゴかったよー!」
 のあちゃんとリオが手を振る。お祭りならではの、チープに光が点滅する星の指輪を付け、やたらと容れ物が光るジュースを首から下げていた。女子って光るもの好きだなぁと思う。
「リオ、そろそろ移動しないとなんだって」
「遊び足んない〜!」
 見た目だけなら全力で祭りを楽しんでいる格好になっていて、そのまま塾いくの? と二度見するくらい派手になっていた。本人がむしろ遊んできたことを全身で表現したいのであれば止める必要もないから、何も言わないでいた。全員が大概浮かれた格好になっているのだから。
 リオを見送るためにバス停まで歩こう、という話になったので国道沿いの桜並木を歩く。夏真っ盛りの青々とした枝葉の隙間から木漏れ日が差す。暑いことには変わりなかったが、日陰になっているから涼しく感じる。たくさんの露店と屋台で賑わっていて、食べ物以外の物に目移りしていた。
 おっ、と思って足を止める。おどろおどろしい装飾をこれでもかとしている箱型の屋台が一際目立つところにあった。
「ねぇ、お化け屋敷とかあるよ! 珍しくない?」
 まだ明るいのでチープに見えるが、古めかしくてやたらとリアルな絵に不気味で割れた音が響いている。広い間口にはリアルな人形らしきものがずらりと並んでいて、怪談に出てくる妖怪を模したものが糸で釣られて動いていた。屋台の奥から悲鳴が上がる。それを聞いて、リオは顔を引き攣らせた。
「私、パス。急に何かが動いたりするの、すごく苦手だし」
「えー、意外すぎて草なんだが!」
「ごめんね、のあちゃん。みんなで行っといで。見送りもここまででいいからさ」
 お姉さんムーブにより、リオは軽やかに手を振って遠ざかっていった。何となく、彼女が夏に溶けていくような雰囲気がして、後ろ姿をしばらく見つめていた。カメラを持ってくればよかった。こういう景色や、そういうのが似合う人はそう多くないのに。
 ふと残ったみんなに視線をやる。コミュニティ同士の集まり……なのだけれど、同級生三人に異質な女性が混ざっている状況でもある。しかも三人はお揃いの、おかしなTシャツ姿だ。間が持たないのを何となく察知しつつ、お化け屋敷へと視線をやる。同時に、のあちゃんがひたすら宇深を見つめているのに気付いて、また要らないエアリーダーが発動した。
「……二人組で行く?」
 宇深が珍しく無表情を崩した。片眉がくしゃっと寄ったのを無視して、のあちゃんは宇深の腕を掴んで駆け出していった。きゃあきゃあとした喋りが溢れて、みーくんは彼女に巻き取られていった。
「何であの女に気ィ遣ってんだ」
「無視できないでしょ、あんなのさ」
 ぽろっと溢れた何気ない一言だったが、金本と普通に話している異常事態があっさりと起きていた。生意気だとか言ってまた殴られたらどうしよう。そう冷や汗が一瞬で噴き出たが、「あーね」と気怠げで適当な返事がきた。
「オレらも入ろ。暑いし」
「ああ、うん……」
 ……金本と呼ぶべきなのか、リヒトと呼ぶべきなのか分からなくなる。学校とは別のところで、異なる関係性になっているのは間違いないのだ。それは宇深とみーくんにも言える事ではあるけれど。
 目の前まで近づくと気味の悪い音楽がよりリアルに聞こえてきた。低音で、不協和音をわざと混ぜたような不安定な音楽。看板にかかれている絵も、妙に上手くて不気味だ。正面に朝ドラで見るような、番頭みたいな人が正座して大きな身振り手振りで呼び込みをしていた。
「さあさあ! 寄ってらっしゃい、見てらっしゃい。昔懐かしい屋台形式のお化け屋敷はこちらだよ! 鬼が出るか蛇が出るか、はたまた誰も知らない怪物か。これを見なけりゃ損をする! 明るいうちがおすすめだ。何たってぇ夕晩は恐ろしくって腰抜かす!」
 噺家みたいな朗々とした喋りで、見た目の派手さに加えて注目を集めていた。マイクは使わず、近づいた人たちだけが聞けるので、そのまま足を止めてしまう人も居た。
「うお、すげぇ昭和」
 声に圧倒されたのかリヒトが興味深そうに眺め出す。新鮮で聞き入ってしまいそうになるが、のあちゃんたちとはぐれると面倒になりそうだ。そこまで遅れをとったわけではないはずだが、二人の姿は見当たらない。入場料を支払って外側にある通路を進む。
「近づくと割と……手作り感っていうか」
「ボロいな」
 人形に手を触れぬようにと再三の注意書きが貼られ、その隙間を縫うように、からかさ小僧だとか、一反匁だとかが宙を舞う。目が光る狸の置物なんかもあって、何でもありで雑な雰囲気もあった。
 暖簾をくぐると、いよいよ室内となってほとんど真っ暗になる。ところどころに点いた提灯が付いていて、一本道を進むタイプのようだ。子供騙しの簡単な作りだと分かっているのに、突然飛んでくる生首や蜘蛛の模型には驚いた。
「ぎゃあ!」
 二人して叫び、驚きと怖さで何故か大笑いしてしまう。
 後ろから肩を叩かれたので、リヒトかと思って振り返る。お化けに扮した人が、金切り声をあげてきたので、つられて死ぬほど叫んでしまった。リヒトはお化けの更に後ろで爆笑していて、どうやらわざとリヒトをスルーして俺を驚かしに来たらしい。余裕ぶっていたリヒトだったが、最後の角で壁から生える多数の腕に捕まって、死ぬほどでかい声量で叫んでいた。最後の直線では、若干キレながら笑っていた。
「ああ、クソ! ちょっと面白かったじゃねーか!」
「やばいやばいやばい、あの腕あったかい!」
 やたらとテンション高くなってしまって、涙が出るほど笑いながらお化け屋敷の道を抜けた。建物自体は広くないのですぐに終わってしまったが、おそらくもう一度入ったらお化け役の人が違う動きをしてくれるのだろう。もう一度入りたいと思えてしまう中毒性があった。
「てか、あいつらは?」
 お化け屋敷の出口で待っているかと思いきや、それらしい姿はなかった。スマホを見ると、謎の生き物がジタバタしているスタンプが送られてきていた。
「のあちゃんに拉致られたかなぁ」
「あー……」
 一応、捕食と被食の関係で成り立ちそうだけれど、みーくんの癖とのあちゃんのでは合わないような気もする。のあちゃんは髪の毛やリボンに対する執念がすごいので、みーくんの趣味が合わさると……ものすごいアングラな風景になりそうな気がした。
「悪いことしたかな……」
 今更ながら、申し訳ないような気持ちが沸き上がってきた。頭を抱えるほどでは無いけれど、頭痛を引き起こしそうな感じ。
 
 ひとまず人通りの少ないところに行って、通行の邪魔にならないように移動することにした。大通りから逸れて、住宅街の近くにある小さな公園を見つけたので、一応宇深から連絡が来るまでは時間をつぶすことにした。金本も、何となく帰るタイミングではないようで、自販機でジュースを買って来た。
 二人で、砂場近くの小さな椅子に腰掛ける。
「だいぶ日が暮れてきたね」
「やっと汗ひいてきたわ。あー暑」
 言葉をかき集めなくても、思いついたことだけで会話が続く。不思議だった。俺はこいつの気分と顔色の変化におびえて、呼吸一つするのにも心をすり減らして居たのに。いじめ加害者といじめ被害者の関係であるはずなのに。ここが学校では無いからか、全神経を注いで防御しなければならないというほどの緊張感はなかった。
 Tシャツ着替えるの、どうする? ダルいし最早これでいいかもな。ていうかなんであんな張り切ったの? そりゃあ、祭りは普段しないことをするからおもしれーんじゃん。
 お化け屋敷、結構笑えたね。あれな、何もかもが変だったな……。お化けとリヒトを間違えたのは不覚だったよ。オレも、スルーされた時は逆に何でって思った!
 そういえばさ、リオとセックスした? いや……え? お前はサシでしたの。生理になったら予定を合わせるとか、言ってたよね。ああ……あの女、胡散臭いんだよ。
 リヒトはさ、みーくんと仲良いの。あー……、仲は別に、そうでも。楽な奴だとは思ってっけど。
「コミュにはみーくんに誘われたんだと思ってた」
「言っただろ、あのバー付近で働いてる友達から聞いたんだよ」
 学校の話題を、二人して避けていたと思う。だから、コミュニティの話になっていくのは自然なことだった。
「にしたって、……《ちょっとアレ》な集まりなのに、よく来る気になったね」
「オレも多分、《ちょっとアレ》な感じなんじゃねーかと、うっすら思う所があったからな」
 まさか、リヒトみたいな傍若無人に振る舞う人間から、そういう自分を振り返るような発言が出てくると思わなかった。家が金持ちで、体躯に恵まれて、顔も良いという自覚があったはずだ。だから、自分自身のことなんて考えなくても、ただ自分の思うままにしたことが正解になると思っている人種だろうと思っていたのに。
「何かきっかけがあったの?」
 影が伸びて、公園の街灯に光が付いた。ぼやっとした光で、照らすというよりも、ピンポイントで何となく光っているだけになっている。夕日と街灯に照らされているせいか、影が二重になって、片方は薄くて背の低い形に見えた。
「ハトがさ、綺麗だと思ったんだよ」
「ハト?」
「首ンところ、緑と紫でさ。羽の色が違う所、あるじゃん」
「……薄膜干渉の話?」
「そうそれ」
 多分、これから語られるのはリヒトにとっての原体験だろうと想像できた。それもとても幼い頃の。
「いいなぁって思って、どうしても捕まえたくて。でも近所の猫に先を越された」
 猫ちゃんに。急に出てきた猫というワードに可愛らしい絵面を想像したけど、多分絶対違う。頭を軽く振ってリヒトの話にきちんとフォーカスを当て直す。
「その時にさ、そこら一帯が血まみれで大量の羽根も散らばって、何ていうか衝撃的な景色だった。で、俺は緑と紫に光ってる羽根だけ、拾って集めた。宝物入れに入れようと思って家に持ち帰ったら、親にめちゃくちゃ怒られて、捨てられちまった」
 俺は見たこともないリヒトの親に同情してしまった。そんなもの持ってこられたら、気味が悪い上に……自分の子供がハトを殺したんじゃないかと不安になると思う。それと同時にリヒトも可哀想に思ってしまった。自分が宝物にしようと思ったものを捨てられたら……多分悲しい。
「血がへばり付いた羽根が、最高に綺麗に見えちまった。すげー興奮もした。あんなものが全部の生き物の中に詰まってるって思うと、……やべぇなって」
 そう言うと、リヒトは缶の中身を全部飲み干した。喉を鳴らして流れていくスポーツ飲料水で、当時の衝動を思い出しすぎないようにしているのが分かってしまった。ゆら、と立ち上がって缶を椅子の下に置く。そのゆったりとした動作を、俺は大人しく目で追っていた。
「あいつも、ちーのこと、大好きだからなァ」
 ……何の話かが分からなかった。というか、今、あいつもって言った? なら、……?
 混乱する俺をよそに、リヒトは俺の背後に回って、両手を俺の肩に置いた。かと思うと、後ろからのしかかるようにして、抱きつかれる。何、とか疑問を口にする間も無く、首の後ろあたりに鋭い痛みが走った。
「いぁ……!」
 経験したことある。飛び上がりそうなほどの軋む痛み……、噛まれている!
「何、い゛ッ」
 同時に、ぞわりとする悪い予感めいたものが肌の表面を撫でる。これだけで終わらない。何か、リヒトの中にある嗜虐スイッチを押してしまったのだ。祭りで浮ついた雰囲気を引きずっているせいかもしれない。人通りの少ない、逢魔が時だというのも間が悪かったのかもしれない。
「……全然わっかんねぇな」
 ぼそりと呟いた声から、異様な冷静さを保っていることを感じ取る。検分するみたいな冷酷さと言っても良い。俺の肌に歯を立てて、どれくらいの力を込めたら俺が声を上げるのか、調べているみたいだ。死んだハトの羽の生え方を調べるみたいに、首と項の境目を観察している。どの程度の大きさで傷を入れたら、どれほどの量の血が出るのか……関心がそこに向いたら、俺で実験されるんじゃないか……。そうと思うと、身体が痛みと関係なくこわばる。
「わかんねえ……けど」
 れろ、と噛み跡を舌で舐められる。血が出るほどの力で噛まなかったようだ。それでも、神経が警告めいた痛みを主張する。俺の両腕ごと抱きついて動けなくできるくらい、体格にも、筋力にも差がある状態で、凶暴性まで目一杯こちらに向けられたら……一溜まりもない。
「俺以外に血を見せるのは、気に入らねーわ」
「ッ……!」
 夕闇の中で白っぽく光る、華奢なナイフがリヒトの手の中にあった。キャンプ用品の一種なのかもしれない。木の枝を削るのにも足りないような、細くて頼りない刃なのに、リヒトが持っているだけで、動脈を的確に狙う牙のように思えてしまう。
「動くなよ。手元が狂ったら、刺さっちまうから」
 刃の裏側にリヒトの指が沿って、まるで愛撫するような手つきで手首の表面をなぞっていく。紙で手を切るときのような、薄くて鋭い感覚がする。それっぽっちでは死なないと分かっていても、体中から全部の熱が抜けていくような不安が貫いていった。
「リヒト、……!」
「動くなって」
 極度の緊張で身体が震える。今までに感じたことのない、死に直接さらされているみたいな恐怖だ。耳の奥で心臓がやたらと大きく聞こえて、三半規管を揺さぶっていく。ぐらぐらとしていて、頭を真っ直ぐ保てているのか分からない。空に広がっている夕焼けが急に赤黒く霞んでいき、リヒトのちくちくする髪の毛も、一緒に視界へと入ってきた。影ごとその場に縫い付けられているのに、身体の震えは止まってくれない。背中に強力なバネが入ってしまって、勢いを止められない事態に陥っているような……自分の力では制御できない状態だった。
「そう、そのまま」
 耳の近くから聞こえる声は、いつものよりも低めだった。何かに真剣になっているのは間違いないけれど、そこに俺の生死は関係ないように思えてしまうくらい、冷たい声音だった。目を閉じて、横を向いて、リヒトが満足するまで待つしか無い。焼けただれた空からも、歪な好奇心を抱えたままの男からも、目を逸して待つしか……!
「……ああ」
 リヒトの、心の奥底から漏れたような感嘆の息が首にかかる。拘束が緩められたので、恐る恐る自分の右手を見た。手首に一筋、赤い線が入っている。全く痛くないのに、締りの悪い蛇口が少しずつ雫を貯めてくのと同じように、傷の上でに赤い丸玉が大きくなっていく。
「これ、これだよ」
 重力で血が垂れて、傷になっていないところにも線を作る。まるで赤いブレスレットみたい。リヒトの声には幸福と興奮が混じっていて、俺の手首をじっくりと眺めて笑った。
「ちーは鼻血が似合うけど、これもいいな」
 夜の気配を携えて、波立つ光が足元からやってくる。焦燥か、恐怖か、……。得体の知れない不吉な風が心を押さえつける。もし、このまま……。別の所にも刃を入れられたら、背中に羽でも生やそうとするのだろうか。

 スマホの通知が鳴る。その音が、二人を現実へ引きずり戻す合図になった。みーくんから、謎の生物がじっとりとした表情で見つめるスタンプが送られてきた。
「……解放されたっぽい?」
「じゃあ、行くか」
 夢から慌てて醒めたみたいに、俺たちは身体を離す。
 そういえば、金本と会っていても、《今日のミッション》を言われなかった。そんな日は初めてだった。今日、目の前にいたのはリヒトだったからかもしれないけれど……。
 俺は唇をぺろりと舐めた