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 何回考えても、みーくんやリヒトに近づきすぎているという結論になる。
 
 リヒトがバイト先にも現れるようになった。若者らしい若者みたいな振る舞いをすることで、おかみさんや常連さんらと打ち解けていったせいで、周囲は俺とリヒトが友達だと信じて疑わなくなっている。女将さんにいたっては「お友達と一緒に食べなさい」なんて言って、おにぎりを持たせてくれる。食費が浮くのはこの上なくありがたいし、日払いで給与が支払われるし、細々したことでお世話にもなっているので、おかみさんと旦那さんには頭が上がらない。だから、リヒトが友人であるというのを否定するのは、気が引けてしまったのだ。ランチのラストオーダーあたりでリヒトは現れる。飯を食って、近くのコンビニやゲーセンで時間を潰して居るらしい。俺がバイトを上がるのを待って、その後一緒にバーへと向かおうとするのだ。元々みーくんと待ち合わせていたので、リヒトがそこに合流しただけなのだが、リヒトとみーくんの間で妙な緊張感が横たわっているのが常になった。
「ちー。これ」
 電車でコミュニティへ向かっている間、リヒトに隠れてみーくんが小さな紙袋をくれた。断りをいれて開封すると、黒いリストバンドが顔を出した。白でブランドロゴの刺繍が入っていてシンプルで使いやすそうなデザインだ。
「使って」
「えっ……、ありがとう」
 宇深から服をもらうことはあったけど、不要品をもらっているだけだった。こうやって誰かに、家族以外でプレゼントをもらったのは初めてかもしれない。
 早速、右手首へ身に着けた。かすかに残った傷跡が隠せて、俺はほっと安堵の息を吐く。
 夏祭りをきっかけに、リヒトは度々俺の手首に傷をつけたがるようになった。付けた傷はすぐには塞がらなくて、他人からの目が気になっていたので助かってしまった。リストバンドなら、スポーティーな装いとしてファッションで身につけていても可笑しくない。
 もう一度お礼を言うと、みーくんは目を細めて笑った。
 
 その日は、タケチカさんとマスターが話していた。女子組は居なかったので、珍しく男子会が開かれた。
 マスターからレモン水を出してもらったが、飲みかけの炭酸ソーダがあったので先にそっちを飲み干そうとする。レモン水は美味しいので、すぐに無くなるのがもったいない。
「そういえばリヒト君とタケチカ君、初対面だよね?」
 マスターがお互いの自己紹介を促す。意外だったのは、マスターもタケチカさんのことを君付けで呼んでいることだった。タケチカさんのほうが年下……なんだろうか。単純にメンバー全員をちゃん付けか君付けで呼んでいるのかもしれない。
「タケチカです。お好きにお呼びください。被食側です」
「リヒトです~。食いたい側。血まみれが大好き。そこの二人はリアルで同級生っす」
「へえ! 羨ましいなぁ」
 突発的に始まった男子会だったが、すんなりとそれぞれの話で盛り上がった。タケチカさんは噛まれたい願望もあるということを話していて、歯型とか付けてもらえると嬉しい、と言っていた。
「リヒト、案外合うんじゃないの。俺のことすんごい噛んだことあったし」
 あの時は血が出るほど噛まれて、金本の涎がべったり付けられたというのが死にたくなるほど気持ち悪かった。今でも……。噛まれるのはあんまり好きじゃないし、リヒトは食うことをしないので、根本的に趣味が合わないと分かってきていた。
「えー、でもねぇ」
 リヒトのことだから、おっさんは嫌だとかそういう失礼なことを言うんじゃないかとハラハラしていた。タケチカさんは結構年上に見えるけど、まだ二十代だったはず。かと言って、下手にリヒトを止めるのは変だし、俺も上手くフォローに回れる自信がなかった。俺は口を挟まないように、ペットボトルの中身を一気に煽った。
「タケさんって、マスターとデキてるでしょ?」
 盛大に吹き出した。炭酸だったせいで喉がひっくり返りそうになる。みーくんに背中をトントンされてちょっと恥ずかしくなったけれど、それどころではない。リヒトは一体、何を聞いてるんだと思っていたけれど、タケチカさんは穏やかに笑った。
「長年お世話になっていますよ」
 否定も肯定もしない、大人な回答だった。ちらりとマスターとタケチカさんとで、アイコンタクトをしている。
「あんまりオトナな方々と揉めたくはねーかなぁ」
 からかうような口調で、二人の反応を引き出そうとしているのは分かった。俺は違う意味でハラハラする羽目になる。みーくんは呆れた風にリヒトを見ていた。止める気は無いみたいだ。
「構わないよ? ここでは互いの願望や欲求を叶える範囲なら、ある程度割り切る関係も形としてあると思う」
「マジで言ってる?」
 マスターの台詞に、リヒトは片眉を上げてニヤニヤし始めた。
「奥の部屋のベッド、最近変えたっぽいし。それって大のオトナが二人ではしゃいでも、問題ないようにしたから……でしょ」
 確信を持った言い方だった。レモン水の氷が溶けたのか、カランと鳴る。ほんの数秒、全員が沈黙しているだけなのに、時間が淀んで留まったせいでものすごく遅くなっている感覚がした。
「ホテルにでも行けばいいのに、わざわざ店のを使うってことは……。マスターがお仕事中にヤッてるか、プライベートでちょっと深い関係になってるってことでしょうが」
 リヒトは止まらなかった。それは推測どころか妄想の域なんじゃないの、とさすがに突っ込もうとしたけれど、マスターが先に口を開いた。
「それはそれ、これはこれ。……というやつだよ。僕はこのコミュニティを大事にしたいと思っているからね」
 否定しないんだ……。と俺は正直に思ってしまった。リヒトは面白くなさそうに「フゥン」と二人を軽視したがる声を出す。
「ま、しばらくは良いや。ちー居るし」
「俺、噛まれるの好きじゃないんだけど。リヒト、血も舐めたりしないし……」
「文句多いわ~」
 大人が居たから、勇気を出して言えたけれど、聞く耳持ってくれなかった。俺が黙っていれば、確かにそれで済む話だけれど。みーくんが牽制して、俺のケアも込みでなめとってくれるけれど。リヒトがしつこく噛みついたり、刃物で切ったりするのは怖いし止めて欲しいのに。せめて出したものを何か使ってくれたら……。
 
 その後は、マスターが好きな食べ方で盛り上がった。みーくんが興味深そうに聞いていたのが面白くて、俺は自分の気持ちとかそういうものに、綺麗に蓋をした。

 ◆ ◆ ◆

 あやふやな境目に切り込みが入る。身動ぎしようとして、途轍もない頭痛に襲われる。すぐさま全ての行動が面倒になってしまったが、自分が今、どういう状況なのかが全く分からなかった。
 あれ? 俺、何していたんだっけ。そう思うと暗闇に切り込みが入る。
「……、タケチカさん……?」
 泡を見上げるような感覚のまま、意識が浮上してくる。心配そうに覗き込むタケチカさんの姿があった。
「熱中症だったのかな。お店の前で倒れ込みそうになったんだよ。覚えてる?」
 ぼんやりとした意識の中、記憶を辿る。辿ったけれど、飛んでいる。
 金本と宇深が、ちょっと大きめの喧嘩をした。俺が血まみれになるのを宇深が嫌がったから。
 日差しに溶けちゃえばいい、このまま死んでスープになったら良い。そう思って意識を手放したことを思い出した。金本にも、宇深にも、遠慮なしにされているせいだけれど……止められないと分かって諦めているからだと思い至る。
 
「怪我、ひどくなってるじゃないですか。リヒトさん達と、ちゃんと合意の上で付き合えてますか?」
 なんて言ったらいいか分からない。リヒトが俺を殴るのは血が見たいから。最近になってやっと分かったこと……。殴られると痛いから、とうとう俺は、自分からカッターで皮膚を切っている。でも、リヒトは血が見たいだけで、飲んだりしたいわけじゃないからみーくんがそれを舐めとって、……。
 俺はそれで良いのかも、と思ってしまっている。だって、鼻血が出るほど殴られるのは痛い。泣いたら涙もみーくんが舐めとってくれるけど、痛いのは嫌だから……。
 ぐるぐると考えているうち、タケチカさんは無言で頭を優しく撫でてくれた。
「踏み込むことではなかったかもしれませんが、ちー君の身体が心配なだけです。何というか……出会ったばかりで、歳も離れていますけど、友人だと思っていますから」
 面倒みのいい人だな、と素直に嬉しくなる。眉間に刻まれているシワや、荒れている肌を見ていると、働く大人は大変なんだろうなと思う。二十代の割にやや老け込んでいる気がする。
「そういえば、仕事は?」
「ああ、休暇中なんですよ」
 大人にも夏休みってあるんだ、と変なことを思った。会社勤めだったら休暇って呼ぶのはそうなんだけど、墓参り以外の休暇なんてないんじゃないかと勝手に思っていたからだ。
 そういえば、この部屋でいかがわしいこと無しに寝転がっているのは初めてだ。
「……タケチカさんが、このコミュに入った理由、聞いていいですか?」
 具合が良くなるまで話を聞きたいとねだると、快く話してくれた。タケチカさんは噛まれたいという被食側だったのは記憶している。同性で被食側は俺たちだけだったので、勝手に親近感を持っていた。
「些細なきっかけだったんですがね」
 映画でドラキュラとかに噛まれている女性を見て、ものすごく興奮することがあった。自分には何か他人には言えない趣味があるんだと子供ながらに思っていて、女の人の細い首筋に目が離せなくなった。
「でもね、それって自分が噛まれたい側にいる自覚がなかった頃なんですよ」
「どうやって気付いたんですか?」
「高校生くらいになってから急に背が伸びてね。そうすると骨格も肉付きも大きく変わっていくでしょう。どんどん太くなっていく首を見て、ガッカリしたんです」
「あ……」
 納得いってしまった。理解できてしまった。だって、噛む側だったら自分の首にガッカリなんてしない。女の人みたいに細くて白い首じゃ無くなっていくことは、つまり理想から遠ざかっていくような恐怖だってあったはずだ。
「どうやって乗り越えたんですか?」
「マスターに、たくさん相談に乗ってもらったんですよ」
 自分が何故、噛まれたいと思ったのか。単なる被虐趣味なのか。人外に噛まれるということ自体に夢見ているのか。噛まれた先のことを期待しているのか……。
「よく、《なぜなぜ癖》なんていう馬鹿げた言い方があるんですがね。きちんとした弁証法だったら一定の掘り下げには有効なんです」
「タケチカさんの願望を掘り下げたってことですか?」
 彼はニコッと笑って肯定する。目尻にある鳥の足跡みたいなシワが、ちょっとだけ可愛いらしく見える。
「結局僕は、本当の意味で解体されて食われたい、と願っているんです」
「……!」
 難しい願望だとすぐに思った。だって食べられるのを自分でみようと思うことは、神みたいな視点がなければ無理なのだから。
「そこでね、極端な考え方をやめたんです。食べられるイコール死ぬということではない、と前提を置いた上でね」
 解体されたいというのはどういうことか。……骨と肉、肉と内臓を腑分けされたいということ。
 解体された状態になりたいのか。それとも解体された結果を見たいのか。……解体される過程を見たい(映像でも可)し、解体された結果を見たい。
 食われたいというのは、本体ごとなのか。それとも切り離されたものでも良いのか。……切り離されたものでも良い。
「こんな風にね、自分が本当にしたいことをちゃんと考えたんです。長い時間がかかりました」
 それを表すように、タケチカさんは大きな深呼吸した。吐かれていく息の後に、新しい時代の空気が入ることを夢見ている。その為に、今を使っているのだと感じさせた。
「第三者が私を食べているのを見るには、もちろん私は生きてなければなりません。だからね、そういう食事会を企画しているんです」
「食事会!? そんな事、出来るんですか!」
 あまりに具体的なものが飛び出してきて、熱中症のダルさなんて吹き飛んだ。
 多くても十名ほどの限られた食事会として開かれるそうで、それもマスターが手伝ってくれるとのことだった。伝手を辿り、グレーな方法で病気として診断をもらった上で、膝から下を切り落とすのだと言う。大っぴらに原型を保ったものを食事会では披露はできないが、手術の映像は録画されて手元に渡してもらう約束をしているそうだ。切り落とした脚は食材としてきちんと解体し、肉や骨をちゃんとした腕前のシェフに調理してもらうのだという。三ツ星レストラン顔負けの味になる自負があると。珍味として、限定した招待客へと直接振る舞うというのだ。もちろん、何の肉かは事前に分かっている人だけ。招待客には事前に色々な同意書を書いてもらうし、食べる側の人も、熱心な人を選ぶつもり……ということだった。
 色々と話した後、タケチカさんは最後にこう付け足した。
「一生の取り返しのつかないことは、大人の方がしたくなるのかもね」
 タケチカさんのセリフは、自虐的なものではなく、自分に向き合った結果ゆえのものだとすぐに分かった。『いやぁ。いい大人がちょっと恥ずかしいんだけどね』みたいな表情で恥ずかしそうに笑う彼は、照れくさそうにしているけれど、迷いのない雰囲気だった。
 もっと教えて! とせがむと、片脚に決めた理由を話してくれた。
 
 人体で最も美味いのは、脂と肉の入り混じったふくらはぎって聞きましてね。処置も難しくないみたいなんです。
 肉だけを切り落とす手順もわかっていてね。かかとから膝裏にかけて縦に切って、そこからぐるっと横に回って、骨が引き離すと、きれいに肉が取れるらしいんです。
 骨も出汁に使いたいですし、血だってスープやシャーベットになると思うんですよね。調理はプロにお任せしますけれど、コースメニューは考えておきたいんです。

 タケチカさんの目は、俺と同い年くらいに見えるくらいキラキラと輝いていた。なんだか急に、本当の友達のようになった気がして、その話を夢中で聞いた。夢の実現に向かって行動している人は眩しく見える。俺も、こんな風に進めたら……どんなに人生が充実することだろう。
「良かったら、ちー君も食べに来ませんか? 元々誘うつもりだったんだ」
 と言われ、一も二もなく飛びついた。食べる側になってみたいと思っていたのもある。しかし、夢を叶えるタケチカさんの力になりたい思いのほうが圧倒的につよかった。
 食人の恐ろしさ? 副作用? リスク? それって、病気じゃない牛肉を食べ続けた時とどれくらいのリスクの差があるの? 実は人間は常に綱渡りをしていることは、俺だって知っている。
「もし、俺も同じことをしたとして、その時、タケチカさんも食べにきてくれますか?」
 タケチカさんは、もちろんだよ! と笑ってくれた。眉間のシワが緩やかになって、余計に幼い表情に見えてしまう。同じようなことを考える友達がいて、本当に良かった。

 その後、俺の体調が快復したので、そのまま店で腹ごしらえをした。タケチカさんと理想の食べられ方について二人して語る。バーが開店した後、お店としてオープンしている場で初めて、ほんの少しのお酒を試した。飲んだのはカクテルだったけれど、ワイン漬けになった自分の肉を想像したり、フランベされる自分を思い描いたりした。
「ちー君の理想が、結実しますように」
 大人な友達はほろ酔いになりながら、俺の身体と心を気遣ってくれて、乾杯してくれた。恵まれちゃってるなって嬉しくなった。