2 被食讃歌

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 バーが今日も臨時休業になるといいう連絡が入った。タケチカさんの食事会のことを聞いていたので、その辺りの段取りでも組んでいるのかな、と勝手に想像する。
 何して過ごそうか、と考えていたら、リオからお誘いが来た。その上、話の流れでリオの自宅に呼ばれてしまった。
 はじめは全く気にしていなかったのだが、女の子の家に呼ばれて、しかも家族は留守にしていると聞いてしまったものだから変な汗がダラダラと出る。実際、彼女の家を目の前にしたら緊張がピークに達していた。新しめの家で、モダンな雰囲気で、綺麗に片付いていて、しかもそれなりに広い。リオってとんでもなく金持ちなんじゃないか。そう言うと、「何それ。そんなわけないよ」と笑われてしまった。
 自分の家とは全く違う。スリッパとか出されて動揺してしまった。靴下汚くないだろうか、汗は大丈夫だろうかと不安になるが、彼女は部屋が二階にあるからと言って背中を押す。手ぶらじゃなんだから、とジュースとスナック菓子を買ってきたけれど、雑な物過ぎてあまりにも不釣り合いだ。余計に緊張してしまう。
 リオの部屋は、白と淡い青を基調にした女の子らしい部屋だった。家具は白、クッションやカーペットなどの布っぽいものは淡い青か薄いグレーで、上品そうな色合いにしてあった。壁に直接文字盤が貼り付けてあるタイプの時計があって、賃貸だと付けられないタイプ、と真っ先に思ってしまった自分が恥ずかしい。二人がけのソファーとアイボリーっぽい色のふかふかそうなベッドと、丸テーブルがあって、小さめのテレビも置いてある。部屋というより、一人暮らしがそのままできそうなレイアウトだった。爽やかなシャボンみたいな良い匂いがして、くらっとする。
「コミュの人、初めて呼んだんだ」
「えっ、他の人は? のあちゃんとか、リヒトとか」
 一応、手土産にしてきたので持ってきたジュースとお菓子を渡す。彼女はテーブルの上にそれを出しながら、会話を続けた。
「そもそも私、リヒトに嫌われてるし」
 リオが金本に嫌われている、と思っているのは知らなかった。確かに、リヒトは「あいつは胡散臭い」と言って居たけれど……。生理中のセックスを好むとリオが言っていたのは強く記憶に残っているので、同じ嗜好同士で仲良くできると思っていたのだ。
「あーあ。せっかく好きになれると思ったのにな」
 時々覗かせる、わざとらしいくらいの仕草。小さな子が駄々をこねる時に、この世の終わりみたいに泣き叫ぶ行動と少し似ている。自分の思い通りしたいけれど、手段がない時の仕草なのかも、とひっそり思う。
 彼女はソファーに腰掛けて、その隣へ座るよう、座面をポンポンと叩いた。一応自分が汗臭くないことを気にしつつ、そっと彼女の隣へと座った。
「リヒトみたいな、ああいう外見が好み?」
「んー、どうだろ。顔が良いとは思うけどね!」
 ジョークめいた言い回しをしながら、彼女は俺が買ってきた飲み物を開けた。オレンジジュースのペットボトルに直接口を付けて飲んでいる姿は、きちんとした部屋の中では違和感がある。俺も彼女にならって、お茶のペットボトルを開けた。スナック菓子を自立するように開けて、他愛のない話をする。
「ちーは、ちゃんと話、聞いてくれるもんなぁ! お姉さん嬉しい!」
「うわっ」
 乱雑に肩を組まれて、リオがますます分からなくなる。真面目そうな女にもなる。気弱そうなところも見せる。でも俺には、活発な先輩ぶる。実際、リオのほうが一つ上でニ年生の先輩に当たるから不思議ではないのだけれど。未だにリヒトと仲良くできる接点として扱われている気がしなくもない。
「リオはさ。どういうきっかけで、今のコミュニティを知ったの?」
「のあちゃんの紹介。もともと、あの子とはSNSで繋がってたんだよね」
 曰く、のあちゃんとリオは自傷癖がある者同士で知り合ったのだという。リオに自傷後は見当たらないので疑問に思ったが、一時期ボディステッチをしていたらしい。
「私さ、ちっちゃい時から食べることが好きじゃないんだよね。だから食事自体が上手くできなかった」
 食事が? あまりイメージが沸かなかった。俺が常に腹を空かせていた子供だったのもあって余計に分かりづらかった。ただ、咀嚼するのが疲れるとか、食べても美味しいと感じない人いるということは知っていたので、彼女もそういう類の苦労をしていたのかもと仮定し話を聞いてみる。
「食事ってコミュニケーションっぽいところがあるじゃん? 同じものを食べて時間を過ごしたり。だから……あんまり友達とお弁当食べたりカフェに行ったりするのも好きじゃなくて、どんどん浮いていった」
 今、まさに、一緒にスナック菓子を食べておしゃべりをしている状態だったので、俺は固まってしまった。あれ、そういえばポテチに手を付けてたっけ。ふと見ると全然減っていなかった。
「高校では頑張ってみたんだよ? だけどやっぱり好きじゃなくて、苦痛で、全然上手く笑えなくて。ノリについて行けなかった」
 そういえば、学校の友達の話を聞いたことがない。塾には行っているみたいだけれど、話に聞かないということは、上手くいっていないのかもしれない。
「きっかけとか……全然わかんないの。何だったかも分からない」
 薄ピンク色のネイルが施された爪の先を、リオは見つめていた。俺とは違う、細かに手入れされた爪と指、手のひら全体。セックスの時に組み敷いて、温かくて、柔らかかったのを思い出す。こんなにかわいくしていても、丁寧に身だしなみを整えていても、友達が作れないこともあるんだ。的外れにも俺はそんなことを考えていた。
「食が細いとか、ご飯が好きじゃないってだけで変な人扱い。だからかな……、自分には芯がなくて、誰かに誇れるものがない人間なんだって、中学入る前にはそう思ってた。だったら誰かの養分になっても良いかなって」
 きゅっと膝の上で結ばれた指先は、大きなお皿で静かにその時を待つまで、祈るように組まれているようだ。絵になるな、カメラ、持ってくれば良かった。また俺はそういう事を考えてしまう。
「でも、同時にね。誰かを養分にしたくなるの。変でしょ? ご飯は好きじゃないのに、養分はほしいの」
 リオの核心になる部分……だとは思う。なのに上滑りしていくように聞こえてしまうのは何故だろう。バーにいる時は、のあちゃんと一緒にお菓子を食べていたし。完璧な食事嫌いには見えなかった。努力してそうしていたのだろうか。もし少しでも無理をさせているのだとしたら、気を利かせたつもりで余計なことだったかもしれない。
「そういえばさ、いっつも制服だよね」
 気まずさを紛らわすために、別の話題にした。実際、リオは今日も制服姿だったのだ。夏休みに入って制服を着るのは、学校に行く時くらいしかないのに。
「うちの制服、可愛いし。私服の組み合わせ考えるより楽だもん」
 ……食うにも困ってないのに。おしゃれも好きなはずだろうに。リオが身に付けているのは、『制服を着ている自分に似合うもの』である気がしてきた。初対面ならとても可愛い人に見える。実際そう思う。けど、変だ。制服を脱ぐの怖がっているみたいに思えてくる。
 だんだんとリオの異質さが浮き上がって見えてくる。でも、普通の女の子だ。どうしようもないくらい欠陥があるか、本人も無自覚なまま欠落しているかのどちらかであると思う。まるで、制服が自分の一部であることに固執しているからこその振る舞いに思えて、少しだけ怖くなる。
「あのさ」
 俺にかまえば金本が……リヒトが見てくれると思っているのなら、どういう言い方が良いだろう。振り向いてほしいわけでもないだろうし、モノにしたいわけでも無いだろう。ただ、邪険にされなければよいというだけだから……。
「俺にかまってもリヒトは釣れないよ」
 言葉を選んだつもりが、かなり直接的な言い方になってしまって、俺は声に出したことをすぐに後悔した。だが、リオはただきょとんとしていた。本当に思ってもみなかった事だったらしく、少し間を置いてから笑い始めた。
「ばっかだぁ。そうじゃないのに。ちー、わかってないね」
 ひとしきり笑って、大きく息を吐いた。壁にある時計の秒針が、一滴一滴、水底に溜まっていく。リオの白い腕が静かに伸びて、俺のTシャツの首元を引っ掛けた。
「時々すっごいいじめて欲しそうな顔するのにさ」
 あ、と小さく声が漏れた。情欲に濡れた女の目になって、下腹がきゅっと縮む。長い髪が静かに、カーテンみたいにかかって、雨みたいに降ってくる。
「ここで、また食べてあげようか?」
 その言葉のせいで、些細な引っ掛かりは吹き飛んでいった。オレンジジュースで濡れた唇に吸い付く。甘酸っぱい柔らかい感触に、しゅわっと弾けるマシュマロを思い浮かべていた。

 リオとセックスをするのは久しぶりだったし、噛んだり啜ったりしながら肌が触れ合うのは心地が良かった。前よりも少しだけ余裕が出来て、どうやったらリオも食われている感覚になるだろう、と手探りで相手の望んでいることを叶えたいと思うようになった。
 綺麗な部屋の中で、リオの匂いが濃い場所を暴く。やっていることは、バーの部屋と同じだった。リオの物しかない部屋で、リオが生活している中で、俺という異物が暴れまわっているみたいでもあった。
「ちー、っぁ、うんッ、そこ……!」
「っ、これ? あ、これ、気持ちいいね、リオッ……!」
 一定のリズムで、優しくノックするみたいに動く。自分のものに自信があるわけじゃないけど、お互いが気持ちよくなって、相手がして欲しい事を叶えるように……と心がけた。リオの身体は柔らかくて、少し無理な姿勢でプレスされるのが好きみたいだ。リオが愛用しているローターを、リオの核に押し当てた。挿入した俺のものまで振動が到達して、内壁が激しく伸縮する。締め上げるタイミングに合わせてピストン運動をすると、リオが快楽に仰け反った。
「あっ、ハ、アアァっ! ッ、気持ちぃ、……! ちぃ、それ、そのまま、ッ、ぁ、んんッ、イク、イクイクイク……!」
「っ、はぁっ! 待って、あっ……!」
 高ぶった興奮の中で俺のモノが震える。俺のものを一滴残らず飲み干そうと、中の肉を全部絡めて吸い付いてきている。美味しそうにむしゃぶりついているような動きに思えて、快楽の頂点は長く続いた。
 何度も交わって、何度も食って、何度も食われて……。ぼろぼろな指先から伝わる痛みが気にならなくなるまで、時間はあっという間に過ぎていった。
 
 ◆ ◆ ◆
 
 リオとのセックスの後に感じる気怠さは、適度な運動をした後みたいで好きだった。リヒトやみーくんだと、俺が真っ平らになっても止めてくれないので、その後すぐに眠ってしまうことがほとんどだった。裸のまま、タオルケットだけ被って肌をくっつけ合う。クーラーの効いた部屋で汗だくになった後、涼しさを取り戻した身体がまた相手の熱を感じるのが、心地よくて仕方ない。
「タケチカさんの食事会、ちーは聞いた?」
「うん、リオも?」
 もしかしたらコミュニティのメンバーにはみんな声を掛けているのかも。二人で一緒に行く約束をしたが、ふと気になることが出てきた。
「さっき、食事が苦手って話をしてたけど大丈夫なの」
「……こんな経験できるチャンス、この先あるかわからないし。できる限り克服したいし」
 それは確かにそうなのだけれど。言い方に少し引っ掛かりを感じた。タケチカさんの長年の夢だろうから、当然食べ残したりは出来ない。……でも、そういうことも分かっていてタケチカさんはリオを誘っているかもしれないので、下手なことは言わないまま、彼女の柔らかい髪の毛を梳かして手遊びする。
「リオって、細かいところも綺麗にしているよね」
「よく見てるね。身だしなみは細かいところが一番大事だから」
 ナチュラルに見える化粧もそうだけど、肌に傷なんて一つも無いみたいにすべすべでしっとりしているし、俺とは大違いだ。
「俺も、少しは気を使ったほうが良いのかな……」
「良いことだと思うよ! 自分の肌が綺麗だと、何となくメンタル落ち着くし」
 指先を見ながら、隅々まで綺麗になった自分を想像してみる。あかぎれもなくて、皮膚の不自然な段差もなくて、お湯でふやけても表面がボコボコになってない状態。……ナイフを刺したくなるのは、リオみたいなまっさらな肌のほうかもしれない。けれど、刺しても構わないと思われるのは元からボロボロなせいもあるかも。それに、噛んだら弾けそうな印象がある方が、美味しそうに見えるかもしれない。ソーセージだったら少し焦げてぷりっとするまで調理したくなるように。そうしたほうが美味しいそうに見えるように。
 そういう意味でも、努力をしたほうが良いのでは、と思えてきた。
「私は、ちゃんとした自分を見てほしいから……って思ってるんだけど、本当なら何もしてなくても愛されたい」
「それ自体は、すごく自然なことだよね」
 俺だってその気持は分かる。無償の愛は多ければ多いほうが良い。俺は……生育環境とか、社会における人間関係とかは、不運な方に入ると思う。けれど、今こうして友人や同類が居て、働くところがあって、これからの学校生活の変化が見込めるだけ幸福なのかもしれないと思っている。その中で、無条件で肯定してくれる環境であるコミュニティに出会えたことは、大きなターニングポイントになっている。小さな関係の中で多少歪だったとしても、互いに認め合うのは無償の愛の代替として十分に作用しているのだから。
「今、こうやってちーと話してて思ったけど……。食べて食べられたいんじゃなくて、本当は、もしかしたら隅々まで見て欲しいのかも」
 相手が欲しくて、私を欲してもらいたくて。
 でも私の身体を開いてぜーんぶ見てもらって、その上で好きって言ってもらいたい。それで、好きの最上位として食べてほしいのかも……。
 ベッドの中で囁かれる、夢みたいなひと時。その中で紡がれる、リオの願いはパステルカラーで出来たキャンディーみたいで、幻想的で儚いものに見えた。
「じゃあさ、開いてもらうだけ、っていうのできるか聞いてみたら?」
「誰に?」
「マスターに。今回、タケチカさんの食事会の手引もマスターがしているみたいだし、伝手があるのかも」
 リオへ前向きな提案をしたつもりだったけれど、彼女は困惑に満ちた表情で固まってしまった。目の前に居るのに、急に通信が遅くなった? と思うくらい返事の間があいた。
「開くって、……ああ、うん。そうだね。そう言ったかも」
 もしかして、荒唐無稽な話で現実味が無いから困っているのだろうか。根拠というには弱いけれど、一生懸命考えて自分の描くものが実現できるのであれば、やったほうが良いだろう。絵空事かもしれないけど、と前置きをして、話を続けた。
「タケチカさんが脚の肉を取り出せるってことは、外科手術出来る人とつながっているってことだから、それも夢じゃないかもよ」
 手術して開腹手術する人が今では大勢いて、本当にお腹を開くだけなら、日常生活に帰ってくるのに時間はかからないかもしれない。手術台にカメラを取り付けて配信してみたり。ステージ上で開腹したのを美しく装飾してみたり……。そういうのを見てみたい人はたくさん居るだろう。想像するだけなら何でもアリだと思って、俺はつい色々と話してしまった。
「……ちーが言うのと、私が思ってるのは、ちょっと違うかな」
 即席にしては筋が通っていて、すごくリオらしいものになると思ったのに、本人は全然本気じゃなかったみたいだ。ハの字に眉を寄せて、曖昧に笑っていた。
「そっか」
 ひどくがっかりしてしまったのを、隠せてなかったと思う。彼女は一瞬、さっと青い顔をした。それから、色々と取り繕うようなことをたくさん言っていた。切った後、傷跡になるのはちょっと嫌だとか、綺麗にくっつけられる人がいるなら考えるだとか、内臓も綺麗にケアしなきゃならないのだとしたら、今よりも窮屈になりそうだとか。俺にとってはどれも意味が分からなくて、適当な返事をしてしまった。さっきまで肌をすり合わせていたのに、今の俺は適当に頷くだけの空き缶みたいに軽薄だった。
 ……もしかしたら。リオ自体、本当は被食願望なんて無いんじゃないか。何においても本気さが見えない。本当に危ういところまで思い悩んでいるのを見たことがない。そういう意味ではのあちゃんの髪の毛リボンのほうがずっと本人の思いを反映しているような気がする。リオは「食って食われたい」だとか「隅々まで見てほしい」だとか言う割に、……肝心なところには踏み込まず、一人で勝手に遠ざかっていく。
 俺が勝手に、リオは何か、同じことを本当に思っている人だと勘違いしていたのかもしれない。これからタケチカさんの肉を一緒に食べると決めたわけだし、リオとそれ以外の人だったら、リオのほうが親しい人に思えていたのかもしれない。

 急激に、リオの印象が変わっていく。まるで俺の中にあった、リオの良いところだけを見る扉がバタンと閉まって、無限に修繕だけを繰り返す中身のない人形を見る窓を変わりに取り付けたみたいだった。目の前でぺらぺらと話す姿は、誰かのタイムラインから得た話を垂れ流す時代遅れのおしゃべり人形みたいだ。退屈でスマホを触りたくなる。
 その後は言わずもがな、会話は無くなってしまったので、俺はリオの家族に会うことなく、ベッドから抜け出した。清潔な香りのする彼女の部屋は、そうでしか在ることのできない、リオ自身への不寛容をそのまま表しているみたいだと、後から気付いた。
「じゃあ、食事会でね」
「うん」
 何で、リオが食事会に来るんだろう。一緒で不安が和らいだと思ったのに、急に面倒な人に感じてしまっていた。

 リオの家の前で、セミがひっくり返っていた。夏も折り返しなんだ、と思いながら、それを跨いだ。