2 被食讃歌

15

 タケチカさんからもらった食事会の招待券を握りしめて、バーが入っているビルの三階へと通された。大きな窓に磨りガラスがはめ込まれていて、太陽の光が柔らかく入り込んでいた。教会みたいに天井が高くて、披露宴とかもできそうな構造になっている。会場は大きくないが、綺麗で清潔感ある内装だった。普段出入りしているバーと同じ、雑居ビル内のテナントだということを忘れそうになる。招待客は、大人がほとんどで、バーに出入りしているコミュニティメンバーは俺とリオだけだった。
 もっとひた隠しにされた雰囲気で行われると思っていたが、カジュアルな雰囲気だった。一応、学生丸出しで行くわけには行かないと思ったので、学校のシャツに黒のジャケット、少し背伸びになるかもしれないけれどネクタイを締めた。リオはやっぱり制服姿だった。ただの食事会だから、きっと最低限のドレスコードとしてはいいだろうけれど、……ズレているというのをしっかりと感じてしまった。表立ってアングラ感を演出していないにしろ、普通の食事会ではないのだ。こういう後ろ暗い催しに未成年が居たら大人は警戒するということを、何故理解しないのだろう。

 席は主催側で決められているようだ。丸テーブルの上に、招待券にあるマークと同じものが書かれているプレートが置いてある。なるほど、参加者同士の氏名が分からないようにしてある配慮だと気づいた。俺のマークは『★-11』だったので、その席に着く。リオは隣だった。
 開始前に、食前酒が振る舞われた。俺たちは未成年だったのでぶどうジュースだったけれど、果実の存在をくっきりと感じられる味わいだった。めちゃくちゃに美味しい。こんな美味しいもの、本当に貰っていいのだろうか、と貧乏性のような感想が出てきてしまった。
 
 静かに照明が暗くなる。ほとんど同時にタケチカさんがステージ上に現れて、拍手で迎えられた。本当に右足の膝から下が無かった。ガチャ、カチャ、と松葉杖を突く音が拍手の合間に響いた。
「本日は猛暑の中、当方が企画した食事会に足を運んでいただき、ありがとうございます。前日はひどい嵐でしたが、本日は日本中の晴天をかき集めてきたような青空で、私の心を表すかのように晴れやかです。主催の鱒田氏には、困難な企画に対し最後までお力添えいただきました。最大の感謝をお伝えさせていただきます」
 拍手が沸き起こる。鱒田さん? と思って見渡すと、マスターがにっこりと笑って会場へとお辞儀をした。タケチカさんも、松葉杖を脇に挟んで惜しみない拍手を送っている。マスター、鱒田さんっていうんだ。
「本日のメニューは、品数こそ多くはありませんが、どこに出しても恥ずかしくない、自信を持って皆様に提供できるお味となりました。濃厚なシチュー、旨味あふれるハンバーグ、さっぱりとしたタタキとなっています。私の方から簡単な説明を致しますが、シェフの方から専門的な詳しい説明をお聞きすることもできます。興味のある方は、ぜひお声掛けください」
 朗々と語るような挨拶に、俺の心臓が早鐘を撞く。早く料理たちと対面したくてじっとしていられない気持ちになっていく。
「最後となりましたが、……どうぞ、心ゆくまでご賞味ください。それが私の、唯一無二の夢です」
 その挨拶と同時に、料理の載ったワゴンが会場に入ってきた。温かい料理の香り。銀色のボウル型の蓋が載せられていて、俺の口の中は涎でいっぱいになった。
 挨拶への感動と料理への期待で、一番大きな拍手をしていたと思う。自分の目の前に恭しく置かれた逸品は、どんなものなのだろう。銀色の蓋が開けられる。温かな湯気から、濃厚でクリーミーで、……明らかな御馳走の香りがした。
「お野菜、お肉のハーモニーをお楽しみください。口当たりは柔らかく、夏場でも冷えがちな身体を労るのにもぴったりです。」
 カトラリーを手に取って、恐る恐るスプーンで掬う。ほんのりと漂うチーズ、それから炒めた香ばしいオニオン、重厚な肉の匂い……。完璧なものでしか組み合わせてなさそうな気配を感じ取って、そっと舌の上へと置いた。
「美味(うま)ッ!」
 思わず声に出てしまう。今までに食べたことが無いくらいの、素晴らしい料理だと直感が告げる。こってりとしていてまろやかな口当たりで食べやすいのはもちろん、口にした瞬間、柔らかくほろほろと解けていく肉に驚いた。シチュー全体に肉と野菜の旨みが溶け出していて、とろりとしたミルキーな味に頬の肉がキュッと上がる。
 肉は単に柔らかいだけじゃなくて……飲んだことはないけれど、ビールでじっくり煮込んだ牛肉みたいに、奥深い味がする。全部を言い表せないけれど、すごく華やかな味だ。牛肉みたいな食欲をそそる肉の香りがして、少しラムっぽいクセがあって、脂の甘みは豚っぽい。塩味(えんみ)が強い気がするけれど、むしろそれが豪華な味になっていると思う。きっと、タケチカさんが言っていたみたいに、筋肉と脂肪が程よいバランスであるふくらはぎの肉だからだ、と思った。
 少し形が違う肉もあった。こっちは少し筋っぽい。牛すじ煮込みを彷彿とする味だったので、そうか、これはアキレス腱かも、と思った。もしそうなら、とてもラッキーだ。すっごく簡単にいうなら希少部位だ。しつこいくらいに咀嚼して、ゆっくりと飲み込むと決めた。
 貧乏学生の俺にとってしてみれば、この食事は格別なものだ。美味いし、見た目もいいし、何よりタケチカさんの夢が叶って、心も腹も温まる一品だ。タケチカさんに視線を送ると目があった。俺は何度も何度も頷いて、とにかく美味いということを全身で伝える。タケチカさんは目に薄っすらと涙を浮かべて、満面の笑みを返してくれた。
 食べるのがもったいないくらい美味い。もちろん、残すことはあり得ない。心から感謝が湧き上がる料理だ。がっつきたくなるのを抑えて、丁寧に一口ずつ、文字通り噛みしめる。本当の意味で、《命を頂くこと》の重みを知ったような心情だった。噛まないで、自然に溶けるのを待つ。唇をじっと閉ざしていると、鼻腔にもいっぱいに香りが広がった。
「んん~! 美味しいっ!」
 リオはシチューを飲んで、恍惚としていた。感嘆ぶりは理解できるが、違和感があった。味に感動しているという感じではない。食い方さえわざとらしくて……、違和感の正体はすぐに分かった。こいつは、料理の美味しさやタケチカさんの肉の味をそっちのけにして、人間の肉を食っている自分に酔っているようだった。

 ……こいつには食われたくない!

 料理をしていた経験から引き出せる事実がある。母ちゃんは俺の料理を、どんなに不格好でも準備や片付けを込んで、感謝してくれたし、美味しいと言ってくれた。俺も母ちゃんの弁当をバカにされた経験があったが、床にこぼされたとしても全部食べきった。バイト先の旦那さんは黙々と作っているけれど、美味しかったと言われる度にニッと笑うのだ。作った側や素材を提供した側から言えば、《作られた料理》というのは色々な思いがこもっている物なのだ。

 例えば、一からコロッケを作ったとしよう。芋の皮を剥くのに一苦労。向いた後も六等分くらいに切って、更に芋を蒸すのに二十分。茹でるのなら塩と火の加減を見ながら十五分。茹でている間に玉ねぎやキャベツをみじん切りにして、中火で混ぜながら炒めていく。その間、芋に火が通ったらザル上げ。玉ねぎと一緒に合いびき肉を炒めて火を止めて、熱い思いをしながら芋を潰して……。芋をフライパンに移して、ヘラを使ってしっかりと肉などと混ぜ合わせて、ようやくタネが完成。コロッケのタネは平らにならして八~十等分で小判型にまとめ、表面に小麦粉を薄くつけて、溶き卵をからめて、パン粉を全体に順につけていく。揚げ油は百七十℃くらいでこんがりとキツネ色になるまで揚げる……。
 とにかく、とんでもない数の工程でもって、ようやく完成する大変な代物だ。熱いし火傷もするし労力が要る料理だ。
 だというのに、大して味わうこともなく、雑に醤油をかけてスマホを見ながらダラダラと食われたら腹が立つと思う。リオがやっていることは、そういう愚かしい行動だ。素材や作った人への感謝が全然見て取れない。全然集中していない。ただ、非凡な出来事を体感して、異端の仲間入りができたと思っているんだ。
 俺はリオを視界からシャットアウトした。時折、「やばいね」と囁いて来たが、「そうだね」とだけ言って味覚と嗅覚に集中する。目の前の料理に対して、雑念になるようなものから意識を遠ざけた。

 待ちに待ったハンバーグが来た。すごく香ばしくて、シチューをしっかり収めたはずの腹がぐうぐうと鳴る。男子だから焼いた肉には抗えない。それがガッツリ目の、存在感ある塊なら尚の事。デミグラスソースがたっぷりと掛けられていて、しめじや舞茸などの、たくさんのキノコの香りと絡んで芳醇だった。ゆっくりとナイフで切れ込みを入れる。じゅわっと肉汁が溢れ出てきた。それを見るだけで口の中が唾液で一杯になる。
 これから口に入れるものがどうなっているのかを、じっくりと観察する。おそらく、合い挽き肉だろうとは思う。成人男性のふくらはぎは大体四キログラムくらいだとインターネットに書いてあった。タケチカさんは身長百七十センチくらい。成人男性、スポーツ経験あり。今でも仕事をしていて、営業で外回りをしていたこともあったそうだから、ヒラメ筋が発達している人だったかもしれない。それでも十人前の肉の量には満たないだろうから、カサ増しを多少していると踏んでいる。だが、ケチくさいカサ増しではない。旨みが十分に引き出される工夫がされているのは、さっきのシチューで体感している。きっとこのハンバーグも、何か仕掛けがあるに違いないと思いながら、ゆっくりと口に運んだ。
 じゅ、とバターの塊が溶けたようなジューシーさ! 牛や豚だけの合い挽きだけでは出せない、濃い肉汁が舌の上で踊る。安価な訳ありメガ盛り豚ひき肉に慣れている舌には、あまりにも贅沢すぎる。味と匂いで物理的に殴られたような情報量だった。これは粗挽き肉だ。すごく肉々しくて、力強い食感と旨味がガツンと感じられる。肉汁の後にくる肉の旨みにやられて、また肉汁のジューシーさが追いかけてくる。シチューに感じられた華やかさとは違って、とにかく、本能的な食欲に直接訴えかける美味しさが畳み掛けてくる。付け合せのポテトも悪くない。でもこれは白米が正解だ。これは茶碗いっぱいに押し込んだ白米が欲しい。
「ハンバーグには白米! という方がいらっしゃいましたら、遠慮なくお声掛けください」
 準備が良すぎる。俺は元気よく、「はい!」と手を挙げてアピールしてしまった。周辺の大人の人から、「あらあら」という風に微笑まれてしまったが、こんな貴重な機会に遠慮なんて出来るわけがない。また、タケチカさんと目が合ってしまった。タケチカさんはにこにことしながら手を振ってくれた。俺はさすがに照れくさくなったが、白米とハンバーグの最強セットを目の前にして「いざ!」と心が高まる。幼児さながら首元からナプキンを掛けた。
 力強い肉を引き立たせるデミグラスソースをたっぷりと絡めて、口に含む。奥歯で噛む。前歯で噛む。旨味がじゅわっと溢れて甘みへと変わっていく。それでもまだ噛んで、噛んで、なめらかなソテーになるくらいにまで噛んで溶かし、ゆっくりと飲み込んだ。そこに白米をかっこんで、余韻がある中で存分に白米の甘みを楽しむ。白米を口に残したまま、熱々の肉を頬張ってみる。脳に直接響くくらい、肉食の喜びが弾けた。味わって、掻き込んで、噛んで、溶かして、……。付け合せの野菜まで同じように味わうと、皿の上は舐めたようにきれいになった。心身を満たす充足感に、深い息が漏れていった。
 人間で良かった。食に工夫をする種族で良かった。大げさにも、そういう感想を呟いてしまった。

 我を忘れるくらいにハンバーグにのめり込んでしまった。次の料理が待ちきれない。タタキ、と言っていたけれど、どんな風になるんだろう。俺は、実はタタキという料理だとカツオのタタキくらいしか経験がなくて、どういう見た目になるのか全然見当が着いていなかった。カツオのタタキだったら表面があぶられていて、生姜とかで食べる生の料理……という印象だった。食べたのはかなり前で、しかも一度だけなので、ぼんやりしたイメージ図を思い描いていた。
 運ばれてきた皿を見て、露骨にテンションが上ってしまった。ローストビーフに似てる! それだけで、絶対に美味いと確信を持ってしまった。
「表面をこんがりと焼いた後、肉を二日間寝かせて熟成させました。さっぱりとしたポン酢を基本として、数多くの薬味をご用意しております」
 こってり、がっつり、と続いてやってきた料理はあっさりしていそうな品で、爽やかな気持ちで食事が終えられそうだと思った。同時に、幸福を感じていてたこの食事会に終わりが見えてきて、侘しいような気持ちが湧いてくる。
 薄めにスライスされた赤身肉は、バイト先にある、夜メニューの馬刺しみたいな盛り付けがされていて、大人な食べ物に思えた。キャベツの千切りが下に敷かれてあって、タタキがあって、オニオンスライスが載せられている。きっとこの上からポン酢をかけたりするのもいいし、一枚ずつ取って、一口ずつ薬味を変えていくものいい、という事なのだろう。
 おかみさんが言うには、良い食材の時はシンプルなものが一番美味しいらしい。わさび醤油や、岩塩なんかで一杯やっていたお客さんを思い出す。俺はわさび醤油を選んだ。
「…………! ッ合う!」
 バカみたいな感想が口から出ていったけど、これ以上ないハーモニーでは、と思ってしまう。野菜をタタキで包んで、わさび醤油をつける。一口で食べるのが勿体無くて、あえて半分くらいまでで噛みちぎる。赤身肉の香りが漂ってきて、そこにわさび醤油が合わさることで際立つ甘みがあって……。シチューやハンバーグの時みたく、しつこいくらいに咀嚼して飲み込んだ。
 ステーキのレア肉をスライスしたようなもので、更に柔らかくしてあるんだ、というのは三口目くらいで理解した。生まれてこの方、ステーキを食べたことがない。サイコロステーキはあるんだけど、ステーキという肉の塊はまだ。それより先に、ちょっと大人な調理方法でタタキを食べられたことは、何だか通で粋な感じがして気が乗ってしまう。
 もみじおろし、白髪ネギ、ポン酢に山わさび、岩塩、タレにんにく……。どれもこれも絶品だった。さっぱり目の料理なのは間違いないけど、とにかく奥深さがすごかった。
『ああ、無くなっちゃう……。こんなに美味しいのに。美味しいから、無くなっちゃう……』
 寂しい気持ちがひと噛みごとに溢れてくる。最後の一口を飲み込んで、大きく深呼吸をした。最後の味をじっくり残すために、鼻腔を通して余韻を味わった。
 
 ◆ ◆ ◆

 デザートにはシャーベットが出された。赤シソを多めに配合しているそうで、実際には多量に血を混ぜているわけではないとのことだったけれど、俺の胃袋も舌も、すっかり満足してしまった。リオは途中で「ボリュームが多すぎるから」と言って量を減らし、結局シャーベットには手をつけなかった。少しは食に対する告白とやらは出来たんだろうか。
 なお、シャーベットはありがたく俺が頂戴した。肉片一つ、血一滴も逃さず丁寧に調理しているのだから残すなんてあり得ない。
「本日は皆さまのお陰で、滞りなく食事会を終えることができました。皆さま、お口に合いましたでしょうか。少しでも記憶に残る品々でしたでしょうか。私としては、ただそこだけが気がかりです」
 自身が食われるならば、ちゃんと味わって食べて欲しい。自分が食われることをリアルに想像した時、切実に感じたことだった。俺はちゃんと味わえたと、胸を張って言える。タケチカさんに、ちゃんと「ごちそうさまでした」を言おう。
『……俺の中に今、タケチカさんの肉があるんだな』
 タケチカさんの最後の挨拶を聞きながら、腹を撫でる。
 腹の中でしっかりと溜まった温かさに、まるで懐胎したような思いがした。

 貴重なタケチカさんを栄養にした身体を、これからは一番大事にしよう、とさえ思えた。
 自分に対してはっきりと愛を向けたのは、この時が初めてだったかもしれない。